マツダがロータリーにこだわり続ける理由 その歴史をひもとく:池田直渡「週刊モータージャーナル」(2/5 ページ)
先日、マツダの三次テストコースが開業50周年を迎え、マツダファンたちによる感謝祭が現地で行われた。彼らを魅了するマツダ車の最大の特徴と言えば「ロータリーエンジン」だが、そこに秘められたエピソードは深い。
戦前にコルク製造会社としてスタート
マツダは言うまでもなく広島の会社だ。そしてマツダの人たちは広島愛に溢れている。過去の取材でも広島という土地とマツダの結び付きについてのストーリーは何度も聞いてきた。その話の原初は何と「たたら製鉄」から始まる。
中国地方は古来から良質な鉄の産地で、「天下五剣」と言われる日本を代表する刀剣のうち、二振りは中国地方で作られたものだ。刀剣のみならず、多くの鉄製品を生み出した金属加工技術を背景に、明治期になると呉市では造船業が盛んになっていく。日本有数の工業都市としての基盤はこうして築かれた。
マツダの前身である東洋コルク工業は「工業で地球に貢献する」をモットーに、モノ作り都市・広島でコルクの製造業として1920年にスタートして成功を収めた。しかし実はその前に伏線がある。
東洋コルク工業の事実上の創業者である松田重次郎は14歳のときに広島を出て、大阪で機械製作の修行の後、ポンプ製造の会社を起こして成功していた。四十代半ばにして故郷広島に戻った重次郎は、東洋コルク工業のファウンダーの一人として、設立に加わった。ところが銀行出身の初代の社長が病気のためにわずか半年ほどで辞任したため、急遽社長の任に着いたのである。
重次郎は社名を東洋工業と改め、社業は順調に発展していたが、1923年、本社が火災に遭い壊滅的な打撃を被った。しかも続いて関東大震災の震災不況に見舞われたことで重次郎は全財産を失うことになるのである。重次郎は失意のどん底で、ブラジルへの移住を考えたほどだったという。しかし偶然にも、国産初の量産二輪車を作った旧知の島津楢蔵と再会したことで、自分の一生を貫く仕事は「機械」にあると考えた重次郎は、もう一度機械設計に立ち戻る決心をする。
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