マツダがロータリーにこだわり続ける理由 その歴史をひもとく:池田直渡「週刊モータージャーナル」(4/5 ページ)
先日、マツダの三次テストコースが開業50周年を迎え、マツダファンたちによる感謝祭が現地で行われた。彼らを魅了するマツダ車の最大の特徴と言えば「ロータリーエンジン」だが、そこに秘められたエピソードは深い。
ロータリーである理由
1960年代に向けて、日本のモーターリゼーションがスタートする。自動車メーカー各社から大衆車が発売され、東名高速道路の建設が始まる。やがて三輪トラックの時代が終わる空気が濃厚になってくる。
恒次は、ピラミッド方式を打ち出し、三輪トラックから軽自動車へ、軽自動車から小型車へ、小型車から普通車へという段階的商品展開を狙っていた。
ところが、ここで思わぬ障害が現れる。当時の通産省である。通産省は護送船団方式で国が主導的に各産業を指導していくことで、国際競争力が得られるという統制経済的な考え方を持っていた。
通産省構想では、きたるべき自動車貿易自由化に際して、日本の自動車メーカーを再編して3つのグループに統合することで外資と戦う方針だった。1961年6月1日の朝日新聞によれば、以下のようなグループ分けがされていた。
量産車グループ:トヨタ、日産、東洋工業
特殊車グループ:プリンス、いすゞ、日野
小型車グループ:三菱、富士重工、東洋工業、ダイハツ
これではピラミッド方式どころではない。東洋工業は分割されてそれぞれ別のグループに組み入れられる存続の危機を迎えたのである。
それを防ぐためには東洋工業は可及的速やかに企業規模を拡大し、通産省に独立存続を認めさせるだけの体力をつけなくてはならない。
東洋工業は1960年に軽乗用車のR360クーペを発売する。1961年2月にはドイツのNSUと契約を結んだ。実はロータリーの開発が難しいということは最初から分かっていた。しかし、東洋工業が存続するためにはどうしても規模を拡大しなくてはいけない。R360クーペにはオールアルミのエンジンを採用し「白いエンジン」と名付けて大々的に売り出したが、銀行には何のことだか分からない。融資を引き出すためにはもっと誰でも分かるインパクトのある事業計画が必要だったのだ。
それこそがロータリーである。世間には夢と挑戦の物語として喧伝されているロータリーだが、それは社の存続を賭けた大一番の方便だった。通産省主導の合併を回避し、独立したメーカーとして存続し続けるためにロータリーという打ち上げ花火はどうしても必要だったのだ。
恒次は次々と手を打つ、NSUと契約した翌月には日本政府の認可を獲得、その翌月には開発に着手する。広島市宇品の埋立予定地に工場用地の購入を決めた。より高性能な小型車や普通車を開発するためにはテストコースも強化しなくてはならない。そして1963年10月、1周4.3km、4車線の幅を持ち、設計速度185km/hという日本で初めての本格的高速テストコースが、広島県三次市で着工された。併設される第1水平直線路は、長さ1.8km、両端に折り返しのためのループを備えていた。綱渡りのように銀行から融資を引き出して、やりくりしながら猛烈な速度で企業規模を拡大させていったのである。
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