「テケツや!」――朝ドラ『あさが来た』の鉄道事情:杉山淳一の「週刊鉄道経済」(4/4 ページ)
近代日本において、女性の社会進出の道を切り開いた実業家、広岡朝子。炭鉱事業で成功し、大阪、福岡、東京へと文字通りの「東奔西走」だった。その行動力を支えた鉄道は、この当時どんな姿だっただろうか。
浅子、東京へ
浅子の上京は1868年(慶応4年、明治元年)の7月だった。もちろん鉄道の開通前。徒歩だ。目的は加島屋の借金返済の延期を交渉するためだった。その後、浅子は実家の小石川三井家を訪問するため、何度か上京している。
1972(明治5)年に新橋〜横浜間で鉄道が開通。運賃の高い鉄道に乗れる身分の旅人は、横浜までは船、そこから鉄道という道順だった。東海道本線はその後、大阪方面は神戸から米原まで順次開通、名古屋付近は武豊港から資材を陸揚げし、岡崎を経て熱田方面の路線建設が始まった。1889(明治22)年に東京〜神戸間が全通した。浅子が東京に向かうたびに東海道線は延伸していた。
炭鉱再開の翌年。1895(明治28)年に浅子は成瀬仁蔵の訪問を受ける。成瀬の「女子教育論」に賛同し、女子の大学を作るため奔走する。東京では政財界の要人たちに寄付など協力を請う。
1896(明治29)年に運行が始まった急行列車に浅子は乗っただろうか。1900(明治33)年に寝台車が登場。新しいもの好きの浅子はきっと関心を持ったに違いない。1901(明治34)年に食堂車も連結された。
1901年といえば、女子大学校の開校の年。浅子は列車の中で乾杯したかもしれない。当時の東海道本線は御殿場経由だった。浅子は月に一度上京した。御殿場付近からの富士山を車窓から眺めていただろう。後に御殿場に別荘を構えている。
その翌年の1902(明治35)年、浅子は広岡家が経営する生命保険会社と、ほかの会社を合併し、大同生命を設立する。しかし、2年後に夫の信五郎が死去すると、浅子は事業を娘婿に譲って引退した。晩年は随筆などを執筆する傍ら、御殿場で女性のための合宿勉強会を開いて過ごしたという。
大阪から西へ、東へ、浅子が動くたびに鉄道は延伸していた。鉄道があったからこそ石炭の成功があり、鉄道があったからこそ、浅子は広範囲に目の届く商いができたと言えそうだ。
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