「テケツや!」――朝ドラ『あさが来た』の鉄道事情:杉山淳一の「週刊鉄道経済」(3/4 ページ)
近代日本において、女性の社会進出の道を切り開いた実業家、広岡朝子。炭鉱事業で成功し、大阪、福岡、東京へと文字通りの「東奔西走」だった。その行動力を支えた鉄道は、この当時どんな姿だっただろうか。
浅子と鉄道
このときの日本の鉄道網はどうだったか。東海道本線はまだ全通していない。東京側は新橋から横浜までで、延伸より複線化に注力していた。大阪側は神戸〜大阪〜京都〜大津まで、大津から琵琶湖の連絡船を通じて長浜まで、長浜から関ヶ原まで鉄道が通じていた。山陽本線の前身、山陽鉄道の開業は2年後だ。
つまり、浅子は陸路で北九州の筑豊炭田へ向かった。駕籠を乗り継ぎ、駕籠のないところは歩いたのだろう。ちなみにGoogleMapによると、加島屋(現在の大同生命本社ビル)と福岡県飯塚市潤野は徒歩で116時間かかる。1日8時間ほど歩いたとして15日かかる。このルートは現在の舗装道路の状況で、関門海峡は海底トンネル歩道だ。当時は船で渡ったはず。道も険しかっただろう。実際は20日以上かかったと思われる。
1887年ごろから炭鉱の経営は好調に推移する。しかし石炭相場の急落や落盤事故が起きて経営危機となり、1888(明治21)年に休鉱した。再開は1895(明治28)年。炭鉱買収から7年も経っていた。
あさの2度目の九州行きは船を使ったという。懐にピストルをしのばせたという旅だ。小説版の浅子は「尾道や広島に寄港して5日もかかった」とぼやく。京都出身の良家の娘というわりに、浅子はイラチであったというべきか。いや、同年、山陽鉄道が神戸から広島まで通じた。急行運転を開始し、所要時間は9時間を切った。炭鉱買収のために資金がなくなり、節約のために鉄道を使わず船を使った。浅子の言葉の裏には「鉄道ならもっと早かったのに」という意味が含まれている。
炭鉱再開のきっかけは、山陽鉄道の延伸で行き来しやすくなったからかもしれない。1897(明治30)年に浅子が炭鉱夫たちの待遇を改善すると、炭鉱の産出量は急増した。山陽鉄道は徳山まで延伸している。浅子は49歳。人生50年と言われた時代であった。
1901(明治34)年。山陽鉄道は馬関(現在の下関)まで通じた。特急列車の元祖というべき「最急行」が運行を開始。所要時間は約12時間半。2年後には1時間短縮している。鉄道の延伸は大阪と筑豊の所要時間を短縮し、多忙極める浅子に貢献した。同年に八幡製鉄所が操業を開始。加島屋の石炭ビジネスは好調となったことだろう。
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