ITエンジニアからの転身 小さな漁港に大きな変化を生んだ「漁業女子」:三重・尾鷲で定置網漁(3/5 ページ)
三重県尾鷲市の須賀利で漁業を始めた、東京の居酒屋経営会社がある。そのスタッフとして漁業事業を引っ張るのが田中優未さんだ。元々はITエンジニアだった田中さんはなぜ今この場所で漁業にかかわっているのだろうか……?
漁業プロジェクトが始まり、須賀利の海へ
そこで田中さんに白羽の矢が立った。五月女氏より、水産経営企画室長として、漁業参入に協力してほしいと依頼されたのだ。その意図として五月女氏は後に「IT出身の女性という立ち位置が、漁業の固定概念から離れるのに適任だと考えた」と語っている。
そこからは一つ一つ、三重県の漁業協同組合や漁村を訪ね歩いた。漁業に参入するために何が必要なのか、少しずつ情報を集めていった。IT企業でのシステム営業の経験やインドネシアにおいて右も左も分からない中で数々の交渉をしてきた経験が役に立った。
少しずつ取り組みを進めていく中で、だんだんと情報が集まり、事態が好転してくる。例えば、最初は飛び込み営業のように漁協に連絡していたが、漁協を管轄する三重県庁の農林水産部の担当者と知り合ったことで、漁協との交渉を仲介してくれるようになったという。
「漁協に加入するためのルールは港ごとに違うんです。私たちは県や漁協の方々にかなり助けていただいて一緒にできました。必要な時に、必要な相手を紹介いただいたり、難しい書類の申請方法を細やかに教えていただいたり、サポートしていただきました。周囲との連携が大事だと分かりました」
そうしていくつもの漁港を訪ね、説明をしていく中でゲイトを受け入れてくれたのが三重県尾鷲市の須賀利漁港だった。もちろん、須賀利も最初から諸手を挙げて賛成だったわけではない。何度も通い、何度も説明して、受け入れてもらったのだ。
「最初は本当に怖かったですよ。私たちが説明している間、漁港の管理委員さんたちがみんな険しい顔つきで腕を組んでじっと聞いているわけです。その時の緊迫感は今思い出しても緊張します。ただ、須賀利には高齢化と少子化による事業継承問題が立ちはだかっていました。管理委員さんたちはみな70歳以上。生産年齢を考えると体力を使う漁業はあと何年できるのか、といった状態です。東京から来た怪しい奴らだけど、須賀利を守るためにかけてみるかという形で受け入れてくれたようです」
須賀利で漁ができることが決まった後も、すぐには出港できなかった。漁場や網などの漁具の修復、漁船員の確保など、するべきことは無限にあった。
「須賀利で許可が下りたのは比較的大きな定置網の漁場でした。なので、そこを素人ながら1から作り上げたので、その網の設置にかなりの時間を要しました。その間、各所からも漁協からも『いつになったら漁に出るんだ』と言われ続けましたが、一つ一つ準備を進め、2018年3月にようやく初出港を迎えました」
初出港までに時間がかかったことには、漁業を始めるためのノウハウがなかったためだ。最初は漁業経験者に指導を求めたものの、「今日は網を修復する」「明日は船をメンテナンスする」といった場当たり的な作業が続き、ほとんど前進しなかったという。
「このままでは時間だけが無駄に過ぎてしまう!」――。危機感を覚えた田中さんは自らが先頭に立ってプロジェクトを推進しようと腹に決めた。出港までに必要な作業をすべて洗い出し、IT業界では当たり前となっているガントチャート(スケジュール&タスク管理表)を作成。出港までに必要な作業の工程を可視化していった。このことにより、出港までの計画が具体化でき、須賀利での漁業が一気に現実のものとなったのだ。
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