2015年7月27日以前の記事
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スルガ銀行の不祥事を地銀は笑えない小売・流通アナリストの視点(1/4 ページ)

第三者委員会の公表によってスルガ銀行の常軌を逸する実態が明らかになった。この一連の事件については開いた口がふさがらない。しかし一方で、他の地銀はこのスルガ銀行の不祥事を笑っていられるのだろうか。

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 第三者委員会が公表したスルガ銀行の実態は、大方、予想されていた通り、ひどい内容であった。

 貸出金3兆1500億円のうち、1兆円が不適切な手続きで実行されたものだというから開いた口がふさがらない。その営業推進体制もまさにパワハラの極致だった。実現不可能な水準の貸出目標が掲げられ、専務執行役員が頻繁に非公式の支店長会議を行って、達成状況の悪い幹部を恫喝(どうかつ)していたようだ。聞き取り調査による行員の言葉を借りれば、「釣り堀に10匹魚がいないのに10匹釣ってこいと言われている状態」だったという。

 支店では目標を達成させるために行員に対してさまざまな圧力が加えられ、追い詰められた行員たちは不正に手を染めていった、というすさんだ状況も明らかになった。

第三者委員会による調査で、スルガ銀行の常軌を逸する実態が明らかに
第三者委員会による調査で、スルガ銀行の常軌を逸する実態が明らかに

 実際、スルガ銀行の職員のモラル低下には実体験がある。同行の管理職と話す機会があり、企業の事業性資金用にオーナー向けの消費性カードローンを用意したい、と当たり前のように言われたことを思い出す。

 本来の資金使途とは異なる(この時点で不適切貸出)のではないかと指摘すると、この管理職はポカンとして意味がよく分からないようだった。資金使途についてそれ以上議論はせず、お帰りいただいたが、かなりヤバそうだなという印象は憶えている。

 こうした事件が明るみに出るまでは、優良地銀と評されていたスルガ銀行の業績は、まさに砂上の楼閣であったわけだが、よく似た古い話を最近テレビでやっていたことを思い出した。毎年夏になると放映される戦争ドキュメンタリー番組で、今年はノモンハン事件が題材だった。

関東軍の失態と同じ

 ノモンハン事件とは、1939年、当時の満州国(防衛担当は日本陸軍の関東軍)とモンゴル(ソビエト連邦の支援国)との国境紛争から起こった軍事的衝突のことだ。日本(関東軍)は、兵力や装備において圧倒的な劣勢にあったにもかかわらず、全面衝突に踏み切り惨敗を喫した。その時の両軍の装備の差は著しく、第一線級の戦車部隊、機械化部隊を送り込んだソ連軍に対し、関東軍は圧倒的に少ない火器とぜい弱な戦車で勝てると思っていたようだ。

 今なおノモンハンの原野に残る関東軍の薬きょうを見ると、明治時代の小銃を持っていたことが分かる、とのくだりがある。これで本当に勝つ気だったとは正気とは思えない。

 関東軍の幹部は、戦力差に関する十分な情報もないまま、それも陸軍本部の正式な承認も得ずに独走して戦闘を開始し、多数の死傷者を出して敗退した。そうした中、現場の部隊は相手の圧倒的な戦車や火器の攻撃にさらされることとなり、兵員の7割近くを失った部隊がやむなく撤退すると、その部隊長の責任を追及し、自決に追い込むといった処置もなされていたようだ。その後、惨敗の事実はほとんど国内で報道されることもなく隠ぺいされ、その後の教訓となることもなかったという。

 ただ、惨敗したものの乏しい装備の下で、日本兵は激烈な反撃により、ソ連側に関東軍をはるかに上回る人的損害を与えるほど奮戦した。対戦したソ連軍の司令官ジューコフ(後のソ連軍元帥、国防相)は、相手を評して、「日本兵は規律正しく強いが、高級指揮官は積極性が低く、紋切り型の行動しかできない、日本軍の技術も遅れている」。

 こうした惨敗の責任者たちは、その後、軽い処分を受けた後、大半が軍中枢に復帰し、太平洋戦争の指揮をとっている。日本国民が、彼らが操る泥船から解放されるのは、終戦のその時まで待たねばならなかった。中には戦犯追及を逃げ切って、後に国会議員になった者までいた。

 そんな無責任指揮官の下、戦後、米国と対峙する世界最強の大国となるソ連の機械化部隊を相手に、装備や兵力が明らかに劣勢な状況も知らず、明治時代の小銃で戦わされた現場部隊はあまりに悲惨すぎる。

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