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絶体絶命のファーウェイ、「伝説の創業者」のDNAに見る“それでも強気な理由”【前編】いかにして「苦境」を乗り越えてきたか(4/5 ページ)

米国の制裁に揺れる中国通信機器・端末大手のファーウェイ。絶体絶命の窮地に追い込まれたかに見える一方、創業者の任正非(じん せいひ)を筆頭にファーウェイ関係者は強気な姿勢を崩さない。

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初の自主開発に成功

 ファーウェイが最初に開発した電話交換機BH01は自主開発とは名ばかりで、国有企業から部品を買い集めてきては組み立てただけという代物だった。宣伝用のチラシも他企業とまったく同じもので、会社名と住所を修正液で消して書き換えただけ。それをFAXして営業をかけるという原始的な手法だった。

 それでも顧客サービスの良さからBH01は好評を博した。ただ国有企業からの部品供給が遅れ、製品納入やアフターサービスに支障がでた。この苦境を乗り越えるのはやはり技術しかない。91年、ファーウェイはついに自主開発の交換機BH03をリリースする。同製品はその後も改良を続け、2008年まで販売を続ける大ヒット商品となった。初の自主開発に成功したことで、任は第一桶金(ビジネスにおける最初の成功)を手にする。

 任正非は技術者出身とはいえ、専門は通信技術ではない。研究開発は新たな人材に頼らざるを得なかった。初期のファーウェイを支えたのが華中理工大学(後に華中科技大学と改名)だ。同校との太いパイプは偶然によって生まれたものだった。1989年、華中理工大学の修士を卒業した鄭宝用がファーウェイを訪問した。会社を訪れた鄭はファーウェイの熱気にあてられ、合格が決まっていた清華大学への進学をと取りやめ、深センで働くことを決意する。

 入社後、間もなく鄭は副総経理、技術系トップにあたる総設計師という要職についた。当時の中国では高学歴の技術者は極めて貴重な存在だったとはいえ、新人にいきなり開発トップを任せるのは珍しい。鄭は自らの腕を振るうだけではなく、華中理工大学の人材を次々とスカウトする仕事も果たし、ファーウェイの開発陣を充実させていく。

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2002年、中国南部の東莞市にファーウェイの工場で働く女性作業員(写真提供:ロイター)

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