「生産性という呪い」から逃れた先に待つ、新たな地獄とは:労働者の「見捨てられ不安」(3/3 ページ)
「生産性」に縛られる現代の労働者。そこには一種の「見捨てられ不安」があると筆者は指摘。この「呪い」から逃れた先に待つものとは。
「承認コミュニティー」すら有料に
そのような「生産性という呪い」から個々人が解き放たれるには、上記の指標にわずらわされないコミュニティー、ネットワークが必要です。かいつまんで言えば「まともに仕事ができてなくても、大きなビジネスチャンスを逃しても、1人の人間として承認される関係性」のことです。
しかしながら、今やわたしたちはそれすら市場に頼り始めています。オンラインサロン的なものの流行の真因は、オンラインサロンコンサルタントの中里桃子氏が自身の経験を踏まえて明快に述べているように、「ヨコのつながり」「安心できる心のよりどころ」に対する志向に根差しています(『人と人とのつながりを財産に変える オンラインサロンのつくりかた』技術評論社)。これは一種の「コミュニティー欲求」といえます。
「生産性」という価値序列の内面化は、終わりなき相対化のゲームを意味します。常に他者との比較に一喜一憂し、突然お払い箱にされる事態におびえ、たちまち「相対化疲れ」に見舞われます。だからこそ、何か絶対的なもの、誰かから能力を試され、値踏みされる空間から切り離された「無防備になれる居場所」を切望するのです。これによって「相対化疲れ」は緩和されます。けれども、わたしたちの自尊心を支えてくれるコミュニティーは、簡単には入手できない希少財と化しているのです。
「若い魅力的な女性」というSNS上の虚構人格で恋愛することに熱中し過ぎるあまり、自己を見失うことになった50代女性の悲劇を描く映画『私の知らないわたしの素顔』(監督サフィ・ネブー、2019年、フランス)は、「コミュニティー無き真空地帯」で自尊心を保つことの苦悩を暴きます。
主人公が精神科医に吐露する「死ぬのが怖いんじゃない。見捨てられるのが怖い」は、個人化された社会において「不要の烙印」を押されることの恐怖を見事に表現しています。(市場にけん引された)「若さ」への固執は「生産性」への固執と同様、自らを地獄の淵へと誘うのです。
そのような隘路(あいろ)に陥ってしまわないためには、前述した同胞とくつろげる共同性が必須となります。しかしこれは相当な努力が求められます。ありとあらゆるコミュニケーションの市場化へと突き進む前代未聞の状況下において、自尊心の貧困をインスタントに解決してくれる救世主のような共同性というものは、「見捨てられ不安」から離脱したいと思う人々をカモにした巧妙なビジネスであったりするかもしれません。
もし、「生産性の高い人材」として市場で絶えず重宝されることなどよりも、「自分らしさ」のよすがとなる関係性を維持し続けることのほうが、いわば「針の穴にラクダを通す」ような困難なものであったとしたら?――わたしたちが現在直面している未曾有の危機は、このようなあけすけな問い掛けが根本にあるのです。
真鍋厚(まなべ あつし/評論家)
1979年、奈良県天理市生まれ。大阪芸術大学大学院芸術制作研究科修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。専門分野はテロリズム、ネット炎上、コミュニティーなど。著書に『テロリスト・ワールド』(現代書館)、『不寛容という不安』(彩流社)がある。
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