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「人が押す鉄道」はなぜ生まれ、なぜ消えていったのか 豆相人車鉄道の歴史神奈川の「廃線」をたどる(4/4 ページ)

1896年に小田原から熱海までの全線約25キロが開通した豆相(ずそう)人車鉄道。明治の文豪の作品にも描かれたこの鉄道は、レール上の箱状の客車を車夫が押すという、極めて原始的な乗り物だった。

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車両はいったいどのようなものだったのか?

 では、この人車鉄道の車両とは、いったいどのようなものだったのだろうか。手掛かりを探すために、実寸大で人車鉄道の客車を再現・展示している「離れのやど 星ヶ山」(小田原市根府川)のオーナー、内田昭光さんを訪ねた。


「離れのやど 星ヶ山」に展示されている人車鉄道の再現車両(筆者撮影)

 内田さんによると、「人車鉄道のレール幅は61センチ。これを基準に、写真などを参考にして車両の長さや高さを割り出して再現した」といい、敷地内に敷設されているレール上で実際に車両を動かすこともできる。

 押してみると、乗客が乗っていない状態にもかかわらず木造の車両はずっしりと重く、当時の写真を見ると客車1両を2〜3人の車夫が押していたようである。それにしても平地ならともかく、乗客が乗ったこの車両を上り坂で押し上げるのは、大変な重労働だったはずである。

 一方で、下り坂に差し掛かると車夫は、車両の前後に付いたステップに飛び乗り、ブレーキをかけながら駆け下った。貧弱なレール上で、車幅の割に背が高くてバランスの悪いこの乗り物をスピードが出た状態で操車するのは難しく、脱線・転覆事故も起きた。

 興味を引かれたのは、内田さんに見せてもらった1等車(上等車)の写真である。車体側面には、「上等」の文字とともに「FIRST」という英字も併記されている。1等車は外国人の利用が多かったためであろう。また、車内をよく見ると、「西陣織ではないか」(内田さん)という豪華な織物で壁が飾られている。建設費が安上がりという理由から採用された人車であったが、さすがに1等車にはお金をかけていたようだ。


 【編集部より:書籍『かながわ鉄道廃線紀行』では、続いて筆者が、小田原から熱海まで人車・軽便鉄道がどのようなルートを走っていたのか、実際に踏査しています。】

かながわ鉄道廃線紀行

神奈川県内には鉄道の痕跡、いわゆる「廃線跡」がたくさんあります。

湘南の二宮とタバコの産地・秦野を結んだ湘南軌道。「夢の国」への未来的な乗り物だったドリームランドモノレール。横浜や川崎の路面電車、トロリーバス。そして横浜港に網の目のように敷かれた臨港貨物線……。

本書を手に、そんな廃線にまつわるあれこれを、訪ね歩いてみませんか。


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