ハワイに100年前から「日本酒醸造所」がある理由 アメリカに“SAKE造り”はこうして根付いた(1/4 ページ)
海外でも“SAKE”として人気の日本酒。その生産は、日本人移民の歴史と大きくかかわっています。ハワイやアメリカで“SAKE造り”はどのように広まったのでしょうか。
世界的に人気が広がっている日本酒。現在では海外産の米・米こうじを用いた清酒が「SAKE」と呼ばれ、各国の醸造所で生産されている。
SAKEの醸造が今から100年前、20世紀初頭のハワイやカリフォルニアでも始まっていたことをご存じだろうか。酒蔵のプロデュース事業を手掛ける高橋理人氏(「高」ははしごだか)によれば、アメリカにおけるSAKEのローカライズには、“3つ”のステップがあったという。
この記事は、高橋理人氏の著書『酒ビジネス 飲むのが好きな人から専門家まで楽しく読める酒の教養』(クロスメディア・パブリッシング、2024年)に、編集を加えて転載したものです(無断転載禁止)。なお、文中の内容・肩書などは全て出版当時のものです。
ハワイでのSAKEづくりの始まり
海外にSAKEが広まった背景として見逃せないのが「現地での生産」です。SAKEの生産は日本人の移民の歴史と密接に関連しています。その始まりは、1800年代末のハワイにまでさかのぼります。
日本人が初めてハワイへ集団移住をしたのは明治元年の1868年といわれ、急増するサトウキビ農園や製糖工場で働く労働者を確保するためでした。
ほとんどの移民は独身男性だったので、日本酒を飲むことは日常の一部でもありました。過酷な農園労働の気晴らしに、日本酒は欠かせないものだったのです。そのため、1890年までには輸入品として日本酒が手に入るようになりました。
そして、非常に多くの日本酒がハワイで飲まれるようになった結果、ワインの消費量が伸び悩んでしまったために、日本酒に高い関税がかかりました。そこで、輸入ではなく現地での酒づくりが検討され、1908年にハワイ初のSAKE醸造所「ホノルル日本醸造会社」が設立されました。
ハワイの暑さは酒づくりにおいては不向きだったので、醸造所は冷房付きで建設されました。今となっては広く見られますが、冷房完備の醸造所は当時としては日本のどの酒蔵よりも早く、世界初の試みでした。ホノルルが世界最先端の清酒技術を導入していたというのは驚くべき事実です。
なお、当時の銘柄は「宝島」で、ラベルにはフラガールの絵が描かれています。
その後、1918年に始まった禁酒法時代においては、SAKEではなく製氷業を営むことで乗り切り、1933年に禁酒法が明けると、SAKE醸造所を建設する動きはアメリカ本土や南米にも次々に広がっていきました。
| ●筆者プロフィール:高橋 理人(たかはし | まさと) |
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株式会社蔵楽代表/呑み手のプロ
早稲田大学商学部を卒業後、大手化学メーカーに新卒入社。社会人初の赴任地である新潟県糸魚川市にて日本酒に開眼。その後、大手コンサルティングファームにて製造業の業務・経営改革に従事。コロナ禍を契機に、2020年10月に株式会社蔵楽(クラク)を創業。
「酒蔵を世界一働きたい場所に」をビジョンとして、東南アジア向けの輸出、日本酒サブスク「TAMESHU(タメシュ)」の他、酒蔵のプロデュースや酒イベントの企画など幅広い事業を行っている。製造から流通まで酒業界全般に対する幅広い知見を持つ。現場と「苦楽」を共に、汗をかきながら寄り添う支援を得意とする。座右の銘は「一周回って本醸造」。J.S.A.認定SAKE DIPLOMA、ワインエキスパート、SSI認定国際唎酒師などを取得。
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