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時価総額は150兆円へ “やせ薬”として需要急増「マンジャロ」製薬会社を包む熱狂──“美容乱用”の行きつく先は古田拓也「今更聞けないお金とビジネス」

IT系の企業が上位を独占してきた「世界の時価総額ランキング」に、突如として老舗の製薬企業が食い込んだ。米製薬大手のEli Lilly(イーライリリー)は、「マンジャロ」という薬で近年知名度を拡大させ、時価総額は一時150兆円に達した。「熱狂」はなぜ起き、なぜ誰も止められなかったのか。

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筆者プロフィール:古田拓也 株式会社X Capital 1級FP技能士

FP技能士センター正会員。中央大学卒業後、フィンテックスタートアップにて金融商品取引業者の設立や事業会社向けサービス構築を手がけたのち、広告DX会社を創業。サム・アルトマン氏創立のWorld財団における日本コミュニティスペシャリストを経てX Capital株式会社へ参画。


 世界経済において、今、一つの地殻変動が起きている。GAFAMといった「テック巨人」に代表されるように、「世界の時価総額ランキング」の上位はIT系の企業が独占してきた。

 しかし2025年に突如、老舗の製薬企業が食い込んだのである。その名は、米製薬大手のEli Lilly(イーライリリー)だ。同社は「マンジャロ」という薬で近年知名度を拡大させ、時価総額は一時150兆円の大台にタッチし、製薬業界としては史上初の快挙を成し遂げた。

 この数字がいかに異常な「熱狂」であるかは、チャートを見れば一目瞭然だ。

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出所:TradingView 上場時から株価は167倍まで成長。成長分のうち、およそ9割は2018年からの上昇率で説明できる。

 コロナ禍でワクチンの救世主としてもてはやされた米Pfizer(ファイザー)と比較すれば、イーライリリーの「時価総額150兆円」がいかに巨大であるかイメージできるだろう。

 ファイザー社はコロナワクチンが供給される前から世界的な知名度があったが、同社をもってしても足元の時価総額は約22兆円にとどまっている。ファイザーとイーライリリーの差は約7倍。もはや同じ業界の競合と呼ぶことさえ躊躇(ちゅうちょ)したくなるほどの独走状態にある。なぜ、これほどまでの評価を市場から得ているのか。

 その原動力となっているのが、日本では2型糖尿病治療薬として承認され、肥満症治療薬としても世界的な需要を生んでいる「マンジャロ」(一般名:チルゼパチド)である。糖尿病に関する薬品のはずが、一部では半ば「やせ薬」として認知されている。

 マンジャロがもたらしたイーライリリーの急騰劇には、深刻な「美容乱用」のリスクと、本来救われるべき患者が犠牲になる「医療の歪み」が潜んでいる。

急激な需要増で企業価値はうなぎのぼり……製薬企業は「悪」なのか?

 まず問われるべきは、この「やせ薬」を供給するイーライリリーの姿勢だ。市場の一部には「需要を煽って株価を釣り上げているのではないか」という穿(うが)った見方も存在するが、実態はそう単純ではない。

 マンジャロは世界初の「持続性GIP/GLP-1受容体作動薬」であるという。これにより、先行薬を上回る強力な体重減少効果を実現した。このイノベーション自体は、賞賛されてしかるべきだ。

 “体重減少”という効果がセンセーショナルに拡散した結果、イーライリリー側はマンジャロの適正使用に対して極めて強い警告を繰り返し発するようになった。

 マンジャロは2型糖尿病治療薬であり、医師による肥満症といった診断のない美容目的での痩身については国が承認したわけではない。使用にあたっては重篤な副作用のリスクがあることを同社は繰り返し表明している。

 イーライリリーにとっても承認外の使用で健康被害が多発し、訴訟や規制強化につながれば企業価値の大きな毀損は避けられない。ただし、彼らがこのような歪みの受益者であることもまた否定できない事実だ。

 実際にエンドユーザーがどのような目的で使用しようとも、工場から出荷された数だけ売り上げは計上されてしまう。

 そして、供給不足がニュースになればなるほど、「手に入らないほど人気なやせ薬」としてのブランド価値も高まってしまい、それが株価を押し上げてしまう。

 イーライリリーの株価暴騰の背景には、製薬側がコントロール不能な需要の爆発があると考えられる。

自由診療クリニックの錬金術

 では、この供給不足と乱用を引き起こしている要因は何か。イーライリリーの発信を注意深く確認すると、その内容は一部の自由診療クリニックと美容外科医に宛てられている模様だ。

 彼らのビジネスモデルはシンプルかつ巧妙だ。 公的保険診療では、マンジャロは厳格な基準のもとでしか処方できず、薬価も国によって固定されている。しかし、「自由診療」という枠組みを使えば、医師の裁量権(処方権)を盾に、診断名のつかない健常者に対しても、言い値で販売することが可能になる。

 正規ルートでの仕入れ値(薬価)が例えば開始用量2.5mgで1キット当たり1924円程度の薬が、自由診療クリニックのメニュー表では総額で1万円前後、コース契約では数本の処方で月額10万円程度で販売されるようなケースも散見される。

 その結果、本当にマンジャロを欲している糖尿病患者が手に入れるべき分を市場から消してしまい、それが美容目的のクリニックに販売されていくことになる。

医療流通システムに潜む「バグ」

 ここで「メーカーが怪しいクリニックに売らなければいいではないか」「国が禁止すればいいではないか」と素朴な疑問が湧く。しかし、ここに日本の法制度の構造的な「バグ」が存在していることを指摘しなければならない。

 一般に、製薬メーカーが医療機関に直接販売することはなく、まずは医薬品卸を経由する。そして卸売業者は、独占禁止法上の不公正な取引方法の一つである「取引拒絶」に抵触するリスクを避けるため、正規の医師免許と開設届を持つ医療機関からの注文を、正当な理由なく断ることが難しい。

 たとえそのクリニックが「美容・ダイエット専門」と看板を掲げていても、医師が「私の医師としての裁量をもって鑑みると、患者の治療に必要である」などと主張すれば、卸がそれを差し止めることは困難なのだ。

 また、全額自己負担の「自由診療」に関しては、医師と患者の合意がある限り、公権力が介入することを極力避ける傾向がある。このような「自由診療の聖域化」と「独禁法の縛り」によって、行政も決定打を打てずにいるのが現状だ。

 なお、厚生労働省や日本医師会もマンジャロをはじめとした治療薬の乱用は厳に慎むべきという見解を11月9日に示したばかりだ。しかし、これはあくまで「要請」であり、法的拘束力を持った「禁止命令」ではない。

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厚生労働省が各都道府県などの衛生主管部に発した「協力依頼」(出所:PDF

一企業のコンプラ努力では収拾がつかない?

 マンジャロの添付文書には、重大な副作用として「急性膵炎」のリスクが明記され、動物実験レベルではあるが「甲状腺C細胞腫瘍」との関連性も指摘されている。

 2型糖尿病患者にとって、この副作用リスクは、失明や透析、足の切断といった死に至る合併症を回避するための「許容すべきコスト」である。しかし、単に「映える体型を手に入れたい」だけの健康な若者にとって、これらの臓器を副作用のリスクに晒す行為は果たして合理的といえるだろうか。

 とはいえ、イーライリリーという企業を単なる「悪」と断じることはできない。

 彼らは科学の力で人類の課題に対する強力なソリューションを提示したに過ぎない。だが、その解があまりにも強力すぎたがゆえに、医療の枠組みを超えて、制御不能な欲望の市場にまで販路が広がってしまったと見るべきだ。

 同社の時価総額150兆円が丸々美容乱用の産物と短絡的に結びつけるのは、革新的な新薬を開発したイーライリリーの功績を不当に貶めることにつながる。だからこそ、流通システムにある不備や要請を超える対応の要求など、ルールの改正に政府や当局がより積極的に関与していくべきだろう。

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