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KADOKAWAメディアミックス戦略の舞台裏 異例だった「出版社の上場」から得たものは?

メディアミックス戦略の開拓者といえるのが、KADOKAWA元副社長の井上伸一郎氏だ。井上氏は編集者やプロデューサーの立場として、クリエイターの才能をいかにビジネスにつなげるかを仕事にしてきた。当時は異例とされていた上場の体験は、現在の挑戦にどう生きているのか。

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 出版社も業績を安定的に伸ばし続ける責任がある──。この課題に対し、書籍と映画を連動させた「メディアミックス」というビジネスモデルによって応えたのが角川書店(現・KADOKAWA)だ。1970年代、日本の出版社として初めて映画産業に参入した。

 この複合的な収益モデルを実現した同社は、1998年当時の出版社では“異例”とされていた東証第二部上場を成し遂げた。

 このメディアミックス戦略の開拓者といえるのが、KADOKAWA元副社長の井上伸一郎氏だ。井上氏はアニメ雑誌『月刊ニュータイプ』を1985年に創刊し、『機動戦士ガンダム』をはじめとするメディアミックスを実践。出版で生み出したIPをアニメや映画、ゲームなどに多角展開し、複合的に収益を生み出す戦略は、今やコンテンツビジネスでは当たり前の手法として定着している。

 井上氏は編集者やプロデューサーの立場として、クリエイターの才能をいかにビジネスにつなげるかを仕事にしてきた。直近でもフリーランスとして、12月12〜17日に名古屋市で開催する国際的なアニメーション映画祭「あいち・なごやインターナショナル・アニメーション・フィルム・フェスティバル」(ANIAFF)のフェスティバル・ディレクターを務めるなど、プロデューサー業に邁進している。

 編集者の仕事からキャリアを始め、プロデューサー業まで務めることで、出版ビジネスの枠組みを広げてきた井上氏。現在は、地方都市での国際映画祭開催という新たな事業に注力している。当時は異例とされていた上場の体験は、現在の挑戦にどう生きているのか。井上氏に聞いた。


井上伸一郎 作家・プロデューサー。1959年生まれ。1987年ザテレビジョン(現KADOKAWA)入社。雑誌編集者、マンガ編集者、アニメ・実写映画のプロデューサーを歴任する。2007年に角川書店社長。2019年にKADOKAWA副社長に就任。現在はZEN大学客員教授、コンテンツ産業史アーカイブ研究センター副所長。合同会社ENJYU代表社員。新著に「メディアミックスの悪魔 井上伸一郎のおたく文化史」(星海社新書)

異例の出版社上場が促したメディアミックス戦略

――井上さんは1980年代の『ニュータイプ』時代から、『ガンダム』などで積極的なメディアミックスを手掛けました。それ以降もKADOKAWAグループの役員としてメディアの垣根を越えた展開を数多くプロデュースしてきました。

 これは1998年に当時の角川書店が東証第二部に上場し、2014年にKADOKAWAが現在の東証プライム市場に上場したことと深く関係しています。普通の出版社であれば「今年はベストセラーが出ました。しかし来年はどうなるか分かりません」というのが自然な形です。しかし上場企業になると四半期ごとに決算を発表しなければなりません。つまり業績を毎年安定的に伸ばし続ける責任があるんです。

 そのためにどうすればいいかを考えた結果、出版社としてできることはメディアミックスだと私は結論付けました。ヒットを1本だけで終わらせず、翌年は2本、さらに翌年は3本と積み重ねていく発想です。結果的に現在、KADOKAWAが年間40本以上のテレビアニメを製作するようになったのは、あの時の考え方の延長線上にあると思います。

――上場がコンテンツビジネスに与えた影響についてはどう考えますか。

 最初は私も「コンテンツ会社が上場は無理だ」と思っていました。毎年業績を伸ばさなければならないという、市場からの厳しい視線を受け続けることになるからです。でもやってみると、むしろ鍛えられる面が大きかったです。

 株主や市場の期待に応えることは、読者や視聴者に喜んでいただくことにつながります。そういう意味では、結局やるべきことは同じだったと気が付きました。もちろんプレッシャーはありますが、その分、挑戦と成果の積み重ねによって会社も成長できる。そう実感しました。

――井上さんはANIAFFのフェスティバル・ディレクターを務めています。これまで培った編集者やプロデューサーとしての経験が、映画祭のフェスティバル・ディレクターという役割にどう生きていると感じますか。

 一番大きいのは人脈です。新潟で映画祭を開催した時には、資金集めのために企業を訪ね歩いたこともありました。ANIAFFではゲストを招いたり、映画祭を広く知っていただいたりする際に人脈が直接役立っています。プログラムの編成は数土直志さんという専門のディレクターが担っていますので、私の役割は映画祭を盛り上げ、より多くの人に知ってもらう形で分担しています。

名古屋からの国際発信とコンテンツ産業振興の狙い

――名古屋で映画祭を開催する狙いを教えてください。

 映画祭の総合プロデューサーを務める、企画開発やIP管理などを手掛けるジェンコ(東京都港区)の真木太郎社長が、愛知県の大村秀章知事と話した際に映画祭の打診を受け、即断即決で決まった経緯があります(関連記事【アニメ制作現場に届かぬ「3.3兆円の投資マネー」 業界歴40年Pに聞く“作り捨て”からの脱却】)。名古屋はトヨタ自動車をはじめとする自動車産業や精密機械などの産業が盛んで、徳川家康の時代から職人が集まってきた土地柄でもあります。ものづくりに対する熱意、つまりクラフトマンシップが根付いている地域なのです。

 アニメーションも芸術であると同時に、実際は地道な作業の積み重ねで成り立っています。華やかな部分ばかり注目されますが、その裏側は膨大な根気とクラフトマンシップに支えられています。そうした側面は名古屋の気質に非常に通じるものがあると考えました。さらに大村知事は「あいちトリエンナーレ」など、芸術活動にも理解が深い方ですので、ここでアニメーションの映画祭を開くことはとても意義のあることだと思いました。

編集者時代の人脈活用で映画祭の機会創出

――この時代に、地方都市で映画祭を開く意味についてどうお考えですか。

 いくつか理由があります。日本はアニメ大国ですが、これまでしっかりと根付いた長編アニメーション映画の祭典というのは、実は存在していませんでした。広島などの芸術系アニメーションの映画祭はありましたが、より広く一般の観客に向けた長編アニメーションに光を当てる場が必要だと考えてきました。

 ANIAFFでは、私がフェスティバル・ディレクターを務めていた新潟国際アニメーション映画祭と同様、40分以上の作品を対象にコンペティションを設け、長編作品を中心に据えています。真木さんも私も、いずれは誰もが知る国際的な映画祭に育てたいという思いを持っています。志としては、世界で最も長い歴史を持つ国際映画祭であるフランスのアヌシー国際アニメーション映画祭などと並び立つものを目指したい。すでに欧州にあるのなら、アジアでは愛知・名古屋がその拠点になる。せっかく日本がアニメでこれほど盛り上がっているのだから、その拠点を作ることが必要だと考えているのです。

――人脈以外で、映画祭運営に生きている部分はありますか。

 やはり最終的には人脈に集約されると思います。私の場合、人とのつながりを広げていくことが編集者としての役割でもありましたので、今もその延長線上にあるのだと思います。結局はそこに自分の強みがあると考えています。フェスティバル・ディレクターとしても、その部分で力を発揮できているのだと思います。

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