日本企業が「円安ピーク」でも海外企業の買収に踏み切る理由:古田拓也「今更聞けないお金とビジネス」
鉄鋼専門商社の阪和興業は6月30日、日本政策投資銀行と共同で米国の鉄鋼構造物メーカーであるAssociated Steel Group(ASG)を買収すると発表した。この6月、ドル円相場は一時163円に迫る水準まで円安が進み、39年半ぶりの水準を更新した。教科書的な財務の常識に従えば、円安のピーク圏は「海外買収を踏みとどまるべき」局面なのに、なぜ企業は買収を進めるのか。
筆者プロフィール:古田拓也 株式会社X Capital 1級FP技能士
FP技能士センター正会員。中央大学卒業後、フィンテックスタートアップにて金融商品取引業者の設立や事業会社向けサービス構築を手がけたのち、広告DX会社を創業。サム・アルトマン氏創立のWorld財団における日本コミュニティスペシャリストを経てX Capital株式会社へ参画。
鉄鋼専門商社の阪和興業は6月30日、日本政策投資銀行(DBJ)と共同で米国の鉄鋼構造物メーカーであるAssociated Steel Group(ASG)を買収すると発表した。
日本政策投資銀行と共同で全持分を取得する。総額は3億4700万ドル(約560億円)。阪和興業にとって過去最大のM&Aである。
今回の記事では、買収のタイミングに注目したい。
この6月、ドル円相場は一時163円に迫る水準まで円安が進み、39年半ぶりの水準を更新した。教科書的な財務の常識に従えば、円安のピーク圏は「海外買収を踏みとどまるべき」局面だ。それにもかかわらず、阪和興業は同社史上最大の対米投資に踏み切った。
これはある民間企業一社の動向を切り取ったものではない。円安のピークで海外の実物資産を取りにいくという一見不合理な行動こそ、2026年以降の日本経済の動向を占うものだと筆者は考えている。
率直に言えば「この先も構造的な円安が続く」と考える民間企業が増えているのだ。もちろん最大の目的は、自社のビジネスの成長や、海外の成長市場で本業の基盤を押さえることなどにある。円高への反転を待っていては好機を逃すと判断し、割高である現在のタイミングでも、外貨建ての事業や実物資産を獲得しようとする動きが相次いでいるのではないか。
国内のM&A件数 価格、件数ともに「過去最高」
2026年1〜3月期の日本企業のM&A件数は1295件(前年同期比9.6%増)と、3年連続で四半期最多を更新。金額は12兆3883億円(約831億ドル、同65.3%増)でこちらも過去最高を記録した。
金額はソフトバンクグループの約4.7兆円にも上る米OpenAI出資の巨大案件がけん引した面はあるが、件数も最多を更新していることを踏まえると、裾野の広がりも同時に進んでいるといえそうだ。
円安下の巨額投資については、その端緒が日本製鉄のM&Aにあると考えられる。同社は2025年6月、米USスチールの買収を完了。投資額は142億ドル(約2兆円)で完全子会社化した。
トランプ政権との交渉の末、米政府に取締役1人の選任権を認める「国家安全保障協定」まで受け入れての決着である。円安に加え、関税・安全保障という二重の逆風を押してでも、需要地・米国での生産基盤を取りにいった格好だ。
資源分野でも動きは大きい。
三菱商事は2026年1月、シェールガス開発の米Aethonのヘインズビル事業(天然ガス供給源事業)を、負債込み総額1.2兆円(出資額52億ドル、約8300億円)で買収すると発表。同社にとって過去最大の取引となる。円建てで見れば割高な局面でも、エネルギーの「源流」を押さえにいった。
半導体でも同様の動きがある。ソフトバンクグループは2025年、米AI向け半導体設計のAmpere Computingを総額65億ドル(約9730億円)で買収している。
もちろん、これらの買収の根底には、各社が描く本業の成長戦略がある。日本製鉄でいえば米国での生産体制の確立、三菱商事でいえばエネルギーの源流確保が主たる目的だろう。だが、足元の対米国企業買収の背景の一つに「今後は円高の恩恵には頼れない」という共通の環境認識が加わったことは否定できない。
円高への反転を待たない
なぜ企業は、円高への反転を待たないのか。それは、日本経済において、円高への反転が期待しにくい局面に入りつつあるからだ。
その中心にあるのが、高市政権の経済運営である。政府は6月、2040年度までに戦略17分野へ官民合わせて370兆円超を投じる工程表を示した。半導体だけで最大68兆円と、経済安全保障を旗印にした巨大投資計画だ。
2025年11月には、事業規模42.8兆円(対GDP比約6.7%)というインフレ下では異例の大型経済対策も打ち出している。
高市首相はこれを「責任ある積極財政」と呼ぶ。必要な投資は国債発行で賄い、経済成長による税収の自然増で中長期的に財政を健全化できるという論理だ。
これに対し、市場の見方はシビアである。370兆円という莫大な投資の原資がどこにあるかが不明瞭だとして、市場は警戒している。国債で賄う積極財政が続けば、金利を抑え込みながら物価上昇を許容する構図、すなわち円安圧力が構造的に残る。
ただし、この構図は財政運営の側から見れば都合の良い面もある。インフレは、政府債務を実質的に目減りさせるからだ。
足元で1300兆円ともいわれる政府債務をインフレで返すとするならば、そのツケは円建ての金融資産を持つ側に回る。
つまり、円で現金や預金を抱え続ける者が静かに損をし、国の債務が軽くなる。このような経済構造が目下に迫っているという見立てを得た企業の間で、円建ての現金を、中長期的な成長が見込める海外市場での本業投資へと、より積極的に振り向ける動きがあるのではないだろうか。
阪和興業がDBJと組んで打った560億円の対米投資は、その潮流の一例に過ぎない。
円安・インフレを前提とした事業設計が求められる
日本の対外純資産は2025年末に561兆7504億円と、7年連続で過去最高を更新した。一見、日本の「稼ぐ力」の証しに見える。だが、中身を確認すると増加の主因は円安による外貨建て資産の評価膨張と、企業の直接投資の増加だ。
企業が先を争って海外資産・実物資産を取りにいけば、取得するために必要な資金が市場原理に従って実態以上に高騰していく危うさもある。
円安による取得コスト増と重なれば、「のれん」の負担は将来の減損リスクとして積み上がる。過去、日本企業の大型海外買収は、日本郵政による豪Toll Holdings LimitedのM&A(買収額6200億円に対し約4000億円の減損)や、東芝の米Westinghouse買収(原発事業で7000億円超ののれん減損、最終的に約1兆円の損失)など、期して臨んだものほど、買収後の統合(PMI)でつまずくような例が後を絶たない。
「円安が続く」という前提が崩れ、仮に円高へ大きく振れれば、円安ピークで買った海外資産は円ベースで大きく目減りする。高市政権の370兆円構想も、成長による税収増という前提が外れれば、“悪い円安”と金利上昇が同時に襲う財政リスクに転じかねない。
少し前には新NISA制度によって家計の資産が米国株へ流出し、それが円安の一端であるという論調も広がっていた。少し遅れて企業も政府も「円の価値は落ちる」を前提に動きつつあるようにもうかがえる。
今後は、円安・インフレを前提とした事業設計を検討することがより重要となってくるだろう。
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