ブログは思いを実践する手段〜中村昭典さんインタビューオルタナティブな生き方(1/2 ページ)

メディアにあふれる数値から世の中を読み解くブログ「中村昭典の、気ままな数値解析」を執筆する中村さんに、これまでの人生とブログに対する思いを語ってもらった。

» 2009年04月04日 08時30分 公開
[土肥可名子,ITmedia]

「中村昭典の、気ままな数値解析」は、メディアにあふれるありとあらゆる「数値」から独自の視点で世の中を読み解くブログである。このブログの筆者であり、元リクルート・とらばーゆ編集長で、現在は中部大学で社会貢献事業を担当する一方でコミュニケーション、キャリアデザインの研究をする、まさに「伝える達人」の中村さんに、ご自身のこれまでとブログに対する思いを語ってもらった。

原体験は「Always〜三丁目の夕日」の世界

 名古屋のベッドタウンで育ちました。都会と田舎のはざまにあるような街で、まだ舗装されていない轍のある道を歩いて小学校へ行き、虫をとっては道草食いながら帰ってくるような、当時、郊外によくいた普通の子供だったと思います。まだその辺にクワガタやらカブトムシもいたし、ザリガニもとれましたしね。

中村昭典さん 『中村昭典の、気ままな数値解析』 中村昭典さん

 あのころの小学校は理科の実験で解剖がありましたよね。ボクらの学校では自分たちが採ってきたフナやカエルを使うんですよ。これが子供ながら男心をくすぐるんです。一番大きいやつを採るのはボクだって。燃えましたねぇ。ボクのルーツはこの昭和的な田舎の子供時代にあります。大げさにいえば自然が好きというか生き物に興味のある子供で、それは今でも変わってません。勉強でも理科や社会が好き。高校は地元の進学校に進みましたが、そこでも生物だけは誰にも負けない自信がありました。

 こんな仕事をしていて言うのもなんですが、国語が嫌いで。例えば「下線部(1)について、主人公の気持ちを表していると思うものを次の中から選びなさい」というような問題がありますよね。で、自分はこう思うって回答するわけだけど、そうするとそれに○とか×とか付けられる。コレ、納得できんのですよ。なんで判るの? 先生は主人公に聞いたんかいと。どう思うかって問題で自分はこう思うって答えてるのに、なんで先生が○とか×とか決めるんだ、それって変じゃない……。なーんて思っちゃうんですよ。実にひねくれた、イヤな生徒だと自分でも思いますけど。こんなわけだから国語は本当にテストでも点数が取れなかった。そんな国語大嫌い人間が、広告作ったり本を編集したりブログ書いたりしてるんだから、ほんと困ったもんですよね。ごめんなさい(苦笑)。

 逆に、理科とか社会とかって、事実が書いてあるじゃないですか。特に自然系の話は、本当にすごいと思うことばかり。自然の前に人間は本当に無力だと思いますよ。自然には絶対に勝てない。子どものころの虫採りにはじまり、大人になった今でも海に潜ったりするのが好きなのは、いつも自然のすごさに心を癒されているからでしょうね。

「伝える」魅力に気付いた学生時代

 それだけ自然や生物が好きだったんだから、何で大学も生物系に行かなかったんだろうと自分でも思うんですけど、将来やりたいことまでは決められなかったんです。だから就職やら何やらを考えたときに、できるだけ間口が広い所というので名古屋大学の法学部に入りました。

 大学時代は自分のやりたいことが何か、その何かを見付けるというのが唯一最大の目標でした。アルバイトもいろんな種類のものをやりましたし、大学祭の実行委員や地域の成人式の委員など、いろんなチャネルのいろんなこと、面白そうなことには首を突っ込みました。その分、勉強はしませんでした。たぶんボクだけじゃなかったかな、法学部に入って六法全書を買わなかったヤツは。国費使ってそんなヤツの面倒見るなんてまかりならんって話ですよねぇ。

 大学2年のときに、仲間4〜5人と自費出版でミニコミ誌を作ったんです。タイトルは『ミスボーイズ』、キャッチコピーは「軟弱な男たちに贈るハードボイルドマガジン」(笑)。ひとり5000円ぐらい出し合って200部だったかな。1冊100円で売って、完売すれば出資分はペイできるみたいな。許可なく大学構内で売ったり、名古屋の丸善にも置いてもらいました。ミニコミ誌を置くコーナーがありましてね。実に気持ちよくおいてくれました。毎回10部位お願いしたかな。完売する号もあったんですよ。

 そんなことをしていたら、大学生向けのラジオ番組を作っている名古屋の制作プロダクションから「ちょっと話を聞かせて」と声がかかりまして。話をしているうちに逆にボクの方が「面白そうだから、タダでいいから何か手伝わせて」と、その事務所に通い詰めるようになったんです。

 最終的には、大学生向けラジオ番組のADをやらせてもらいました。社長が「何かあったら会社が責任とりますから」と言って学生のボクを入れてくれたんです。週1の30分番組でした。ADといっても、レコードかけたり、テープレコーダーを抱えて取材に同行したり、現場でレポートしたりと、ありとあらゆることをやらせてもらいました。その辺からですね、多くの人にものを伝えていく仕事って面白いな、マスコミに行きたいなと思うようになったのは。

 お金を動かせる広告の方に面白みを感じて、広告の世界、電通に行きたいと思っていました。というか、電通しか考えてませんでしたね。いろんな会社をまわって、交通費もらって東京本社へ面接に行くたびに電通へ顔を出していました。なのに就職協定の解禁日に、なぜか引き寄せられるようにリクルートへ行ってしまったんです。

 電通って大きな会社ですよね。当時のリクルートはその正反対で、何も決まってなくてぐちゃぐちゃというか、でも中にいる人は熱いというか。こういう仕事をしたいなと思う人がいたことも大きかったかな。結局、15年お世話になりました。ようおったなぁ(笑)。

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