車載アンテナなど電子部品を提供しているヨコオは、約13年かけてSAP ERPのグローバル1インスタンス導入を進めてきた。その後の2022年に始まったSAP S/4HANA Cloudへの移行は、既存の資産を生かすブラウンフィールドによる移行を選択。あえて最新のテクノロジーには踏み込まなかった。その理由と、同社の基幹システム運用の現実解を聞いた。
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2026年7月に開催された「SAP NOW AI Tour Tokyo」の事例セッションで、ヨコオの大塚英光氏(IT本部情報システム部 SCM革新推進課次長)が登壇し、同社が足かけ20年にわたり取り組んだ、グローバル1インスタンスによるSAP ERP導入の歴史と、そのクラウド移行について講演した。「ITmedia エンタープライズ」では、大塚氏の講演後に追加取材をする機会を得たので、講演内容と詳細コメントを合わせてレポートする。
ヨコオは、1922年の創業から100年を超える老舗電子部品メーカーだ。アンテナ・マイクロウェーブ技術と微細精密加工技術の融合を強みとしており、車載通信機器や半導体検査用のプローブカードやソケット、微細なスプリングコネクター、医療用のカテーテルやガイドワイヤの4事業を基盤としている。これらは、生産方式や業務プロセスが異なっており、事業部門ごとに独自の発展を遂げてきた。
早くから海外に進出し、マレーシアや中国、米国、ベトナム、フィリピンに量産拠点を構え、海外生産比率が80%を超えているのも特徴だ。「世界に分散した拠点のデータをどう束ねるかが、経営の大きな課題だった」と大塚氏は話す。
ヨコオのシステム変革は2007年から始まった。当時、同社の基幹システムは事業部ごとに完全に分断しており、本社部門の財務会計とコネクター事業はオフコンで管理され、主力の車載アンテナ事業は生産系ERPである「GLOVIA」(グロービア)を導入するなど、サイロ化していた。当然、各システム間に連携はなく、データの受け渡しは手動で実施され、会計データは1カ月しか保持できなかった。結果的に大量の紙による運用を余儀なくされていた。
この状況を打開するため、同社は基幹システムにSAP ERPの採用を決定した。採用の理由は、優良顧客からSAPのグローバル対応力と強靭性が評価されたこと、多通貨取引へのリアルタイム対応、複雑なSCM(サプライチェーンマネジメント)の統合管理、そして継続的な進化であった。2007年に入社した大塚氏は、前職ではSAPの開発言語であるABAPのエンジニアとして活動しており、SAP導入の中心メンバーとして抜てきされている。
全世界規模の「SAP ECC 6.0」の導入は、1つの地域、1つの事業ごとに順を追って進められた。2007年から2020年にかけて、日本から国内外の製造・販売拠点へ段階的に展開し、13年以上を費やして全世界1インスタンスへの統合を完了させた。「導入チームをアンテナ事業とそれ以外の2チームに分けて進めたが、全体で20〜30拠点はあり、1拠点のERP導入には半年ほどかかるため、結果として13年という時間を要した」
時間はかかったものの、グローバル1インスタンスのERPの効果は大きかった。リアルタイム管理によるデータの一元化、業務プロセスの標準化、内部統制強化、そして保守運用の最適化という数多くのメリットを獲得した。「1インスタンスの構築によって蓄積された統合データは、その後のシステム移行を方向付ける重要な資産となった」と大塚氏は語る。
その後の2018年、同社ではSAP導入と並行して、オンプレミスサーバのインフラ移行プロジェクトを開始した。この移行は、全体統括や基盤運用、移行支援をそれぞれ別のベンダーが担う、3社のマルチベンダー体制によって進められた。プロジェクト自体は無事に完了したものの、複数ベンダーが協調する体制において「責任分解点」の設定と合意形成に難しさを感じることとなった。
「どこからどこまでが誰の責任なのか、その線引きと合意形成などのコミュニケーション設計が曖昧だと、とたんに物事が進まなくなった。複数ベンダー体制の移行では責任分解点の明確化が成否を分けることを学んだ」と大塚氏は振り返る。この経験は、ベンダーを単なる外注先ではなく、敬意を持って協調する「イコールパートナー」として扱う重要性を再確認させ、その後の「SAP S/4HANA Cloud」移行における協力体制構築への教訓となった。
そして2022年、ヨコオはS/4HANA Cloudへの移行計画を開始した。ECC製品の2025年保守期限がアナウンスされ、限られた時間での対応が求められたことがきっかけだった。
最初の課題は、移行方式の選定だった。コアをクリーンに保ち、ゼロから再構築する「グリーンフィールド」、現行システムをそのままクラウド化する「ブラウンフィールド」、両者の中間で、必要な資産を部分的に移行する「ブルーフィールド」の3つから検討した。
検討の結果、同社はブラウンフィールドを選定する。その最大の理由は、全世界1インスタンス展開で積み上げた既存資産を生かすことを優先したからだ。ゼロからの構築は、全世界へ再び展開するために膨大な歳月と社内リソースを要する。かつての展開には13年かかっており、再びそのリソースを捻出することは不可能だった。また、ユーザーからの既存システム継続要望も強く、ブラウンフィールドが要望に合致する現実解と判断した。
「クラウド化を機にグリーンフィールドを選択する企業も多いと聞く。確かに新しい機能などの展開はしやすい。仮に新システムのポテンシャルが70%だとしても、当社には既に70%でしっかり稼働するシステムが完成していた。まずはそこをクラウドに乗せて、データ分析など1インスタンスのメリットを生かすことに専念した」
このクラウド化プロジェクトは、社内で「プライムスケープ」と名付けられた。「最重要中核を意味するプライムと、風景全体を見渡すスケープを組み合わせた造語だが、単なるERPの移行ではなく、経営基盤を刷新し、業務やデータ、経営という全体を再定義することで、遅れていたDXを推進する狙いを込めている」と大塚氏は話す。
コストについて事前のシミュレーションとSAPからの提案を基に検討すると、ライセンス方式よりもクラウド化と同時にサブスクリプションに切り替えるメリットが大きいことを確認し、サブスクリプションへ移行した。また、アーカイブ期間を縮小してダウンタイム削減を図るなどの工夫を重ねた。
ブラウンフィールドとはいえ、アドオンを含むERPをクラウド化するには入念な検証と改修が必要だった。「事前にアセスメントを実施すると、全体で約400個あるアドオンのうち約100個で問題が出ることが分かった。それらを再コーディングして、テスト運用する必要が出てきた。われわれのチームでも作業したが、実際にシステムを使うユーザー側にも丁寧に説明して、テストを依頼した」
クラウド化の本番移行では、業務停止を伴うダウンタイム調整とユーザー受け入れテスト(UAT)が難所となった。ダウンタイムは、関係部門への丁寧な説明と対話による事前合意で現場の不安を解消した。UATは影響範囲が多岐にわたり、システム部門のみでは対応困難であったが、業務側のSAP運用リーダーを巻き込んだことで突破した。
「UATの期間は約3カ月ほどだったが、全世界から不具合の問い合わせが入ってくるので、その間は24時間対応に近い厳しい改修が続いた。稼働前に7割ほどが解決し、稼働後も3割程度は問い合わせが続いたが、3カ月ほどで落ち着いた」と大塚氏は移行当時の状況を話す。
また、限られた人材での進行やコロナ禍の負荷によって体調を崩す者が出た際は、責任を明確化しSIerと協働で打開した。ここでは2018年の教訓が生かされたと大塚氏は言う。合わせて、専用プロジェクトルームの設置や「Microsoft Teams」「Microsoft SharePoint」の活用でハイブリッドな意思疎通を図った。「人員計画と健康モチベーションのケアは、技術選定と同じぐらい重要だった」
本番移行は2024年末から2025年始にかけて実施された。3.5回のリハーサルを重ねたが、本番で数行の不具合データが出現し、プログラムが停止する危機にも直面した。移行要員の不在という事態も生じたが、SAP側が臨時のオフショア要員を提供するなどの支援をし、無事に移行を完了させた。
大塚氏は、移行成功の鍵はテクノロジーではなく現場との対話だったと話す。「現場には部門のトップから説明があるが、浸透度は部門によって違うため、中心的なユーザー(パワーユーザー)への追加の説明が必要だと分かれば、すぐにスケジュールを確認して説明会を開催するなど、『最後は対話しかない』という覚悟でとにかく走り回った」
2022年1月にクラウドへの移行を実施し、直後の3カ月は、さまざまな問題がユーザー部門からも寄せられた。しかし決算期の3月末を越えたところから落ち着き、現在は安定稼働しているという。
「S/4HANA Cloudへの移行はゴールではなく、新たなデータ活用の出発点」と大塚氏は話す。これまで十分に活用できていなかったデータ資産を「眠れる宝」と位置付け、「SAP Analytics Cloud」(SAC)と「SAP Business Technology Platform(BTP)」を活用した経営ダッシュボードを3年計画で構築していく計画だ。
取り組みとしては、SACによる分析、AIアシスタント「Joule」などの活用、システム間のデータ連携設計の3つを並行して推進する。ただし同社の場合、ブラウンフィールドの移行なのでGUIが旧来のままであり、SAP Jouleを使うためにはインタフェースを「SAP Fiori」へ変更する必要がある。ここは、AIモデルの選定も含めて検討していく。
AIを含めた分析結果は、最終的に経営ダッシュボードへ集約する計画をしている。さらに、サプライチェーン効率化のための「SAP Business Network」の検討や、工程作業マスターと製造実行システム(MES)の連携も進める。
特に製造実績を取り込んだ原価計算による管理会計の高度化は、同社にとって重要なテーマだ。「当社はまだ、製造原価の中の変動費のデータしか活用できていない。MESと連携して各製品にかかわる直接の労務費などを取り込まないと、原価計算の精度を上げられない。そこは喫緊の課題だと思っている」
ブラウンフィールドを選択してERPのクラウド化を実現したヨコオだが、アドオンが多い当社にとって、今後クリーンコアを実現していくことはハードルが高く、すぐに実現することは難しいと大塚氏は見ている。しかし同社には、グローバル1インスタンスのERPという優位点がある。
「例えばSACを使う場合でも、インスタンスが分かれていれば都度データを融合しなければいけない。しかし当社は、SAPのデータが最初からグローバルの状況を示しているので、可視化、分析が極めて容易だ。このメリットを生かして、まずは経営基盤として活用していきたい」
大塚氏は最後に「これからもヨコオはヨコオなりの、地道で泥臭いスタイルでDXを進めていきたい」と語った。現実を見て、自社にとっての最適解を選んだヨコオの基幹システム刷新の経緯は、トレンドに左右されない堅実な打ち手の可能性を示している。
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