会社での経験を“神社ビジネス”に生かす――街おこしのキーマンは「神社経営の変革者」(中編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(2/3 ページ)

» 2008年04月11日 19時29分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

 「日販は、言うまでもなく、出版社と書店を取り次ぐ流通の会社なんですが、その当時の私は、日販のことを最後まで出版社だと誤解していましてね。それで、テレビ局より出版社の方が本来の志望だということで、テレ朝の内定を辞退してしまったんです」

 気がついた時には、もはや手遅れだった。しかし、特に残念という気持ちにはならなかったというから驚く。

 「どんな仕事であっても、必ずそこには、その仕事なりの面白さはあるものだと思うし、それを見つけるのは、自分の責任だと思ったんですよ」――学生時代に、多くのアルバイトの中で培った「仕事観」がここで生きた。

 確かに、好きで入った会社であっても、必ずしも自分の行きたいセクションに行けるわけではないし、仮にいやいや入った会社であっても、あらゆるセクションがつまらないとは限らない。そこで自分なりの「楽しさ」「醍醐味」を見いだすのが、プロとしての基本姿勢だと彼は言うのだ。けだし至言であろう。

 最近は、好きな会社に入れなかったからとフリーターになったり、希望する部署に配属してもらえないからという理由で展望もなしに退職する人が多い。しかし、恵川氏の考え方は全く違うのだ。

日販・王子物流センターで試練をチャンスに

 1994年入社。配属先は東京・王子の物流センターで、彼は角川文庫の棚の担当になった。角川文庫を角川書店から仕入れ、それを自社(日販)の取引先である全国の大手書店に流通させるための「在庫管理」が彼の業務だ。

 肉体的にもかなり過酷な仕事だったし、「協力社員」と呼ばれる年配のベテランたちの“鍛え方”も厳しいものがあったようだ。

 自分の勘違いで入った会社でこのように厳しい環境に置かれたら――おそらく“ふつうのビジネスパーソン”であれば、即退職してしまうのではないだろうか。

 そんな日々の中、恵川氏の脳裏に去来したのは、「三国志」に登場する英雄たちの群像だったのだろうか。困難な状況の中で彼は、いつしか職場の上司・先輩たちの心をつかみ、稀に見る一体感を作り出していった。

 在庫切れが発生しそうになると、入社1年目の恵川氏が中心になって角川書店の倉庫まで集団で押しかけて書籍を入手してくるなど、業界の前例を破る、数々の武勇伝を残している。

 この型破りな仕事ぶりは、やがて彼に大きなチャンスをもたらした。うわさを聞きつけた有力幹部が、社運を賭けた新規プロジェクトのメンバーとして、入社わずか3年目の彼を抜擢したのである。「この方との出会いは大きかったですね。ビジネスについて多くのことを学ばせていただき、私にとっては恩人です」

 1台60億円もするロボット的機能を持った新しい本の仕分け機を開発・導入するプロジェクトで、恵川さんは約10人の社内選抜メンバーの1人だった。

 「会社に寝泊りする日々が続き、土日もありませんでしたね。入社5年目にようやくその仕分け機は稼働したんですが、今度はトラブル処理に忙殺され、入社6年目でどうにか安定稼働にまで持っていけました」

社長直々の指名で、本社ネット事業部に

恵川義浩氏

 仕分け機導入プロジェクトが何とか軌道に乗った入社6年目の冬、なんと社長から直々の指名を受け、恵川氏は本社ネット事業部に抜擢される。

 時は1999年、“IT革命”が叫ばれていた頃だ。あらゆる業界が、環境変化の大波に乗り遅れまいと注力していた。日販としても、恵川氏という若手のエースの登板を必要としたのだろう。

 「インターネットを活用して本の取次ぎを事業化しようという試みでした。分かりやすく言えば、Amazon.jpの日本版を作ろうというプロジェクトです」

 このプロジェクトでも事業化に貢献し、「結果」を出した恵川氏。プライベートな面でも、このプロジェクトの中で知り合った女性と社内結婚するなど、ビジネスパーソンとして1つの絶頂期を迎えつつあった。29歳だった。

 「ちょうどその頃から、父から神社の承継について、そろそろどうかと言われ始めたんです。私自身も『神社を何とかしなければいけない』と思い始めていました。会社生活を通じて、自分なりに自信のようなものが身についてきていましたし、外から客観的に見ることで、神社のマネジメントの方向性も見えるようになってきたということもありました。それに、子供ができたので、まともな時間に家に帰りたいという気持ちもありました」と苦笑する。

 こうして転身を決意した恵川氏。勘違いで入社した日販であったが、これほどまでに充実した期間になし得た要因は何であろうか? 「どんな仕事であれ、そこに面白さを見つけるのは各自の責任である」と彼は言う。ここに現われている彼の思想は、自分の身にいかなる環境変化が生じても、しかも、それが望むものであっても、そうでなくても、その新しい環境の中で、自分にとってのベストの「解」を見出してゆくことに人間としての尊厳が存在する、ということではないだろうか? 環境変化へのこうした適応力ゆえに、彼は日販でも「イノベイター」(変革者)として活躍できたのではないかと思われる。

 2002年、同社を退職し、彼は、赤坂氷川神社に権禰宜(ごんねぎ、禰宜の下)として入った。

 神社の世界……それは我々一般人には伺い知ることの出来ない領域だ。果たして、どのような風景がそこには広がっているのだろうか?


赤坂氷川神社

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