著者プロフィール:竹林篤実(たけばやし・あつみ)
東大寺学園高校卒業、京都大学文学部卒業。印刷会社営業職、デザイン事務所ディレクター、広告代理店プランナーなどを経て、2004年にコミュニケーション研究所の代表。ブログ:「だから問題はコミュニケーションにあるんだよ」
先日、自分のブログで『テレビの二つの原罪』と題したエントリーをアップした。これを読んでいただいたコメント、最近読んだ本の内容などを合わせて、もう一度考え直してみた。テレビの原罪はどうやら3つあるようだ。
とあるセミナーで、引退されたテレビプロデューサーがしみじみと語っておられた(関連リンク)。自分は30年間、どっぷりとテレビ業界に浸かり、数多くの番組を世に送り出してきた。もちろん、そのことを誇りに思う。しかし、テレビ業界を離れて世の中を見るとき、取り返しのつかない罪を犯したかもしれないと。
彼がいう罪は2つある。視覚(+聴覚)への過剰依存状態へと多くの人々を導いてしまったこと。もう1つが「東京的価値観」による全国均一化である。
テレビとは、圧倒的な視聴覚メディアである。制作者は、視聴覚をフルに刺激するおもしろい番組を作ろうと必死に努力する。だから、放送される番組は、それなりにおもしろい。おもしろい番組を流し込まれ続けた結果、視聴者に何が起こったか。
毎日毎日、テレビからあふれ出してくる膨大な番組を見続けているうちに、人は五感のバランスを狂わせてしまった可能性がある。テレビが刺激するのは、ひたすら視覚であり聴覚である。
人間の五感はそもそもテレビありの世界を前提として備わっているものではない。本来なら過酷な自然の中で生き延びるために研ぎ澄まされてきたのが、人間の五感だ。にもかかわらず視覚と聴覚だけが異常に偏って刺激され続けるとどうなるか。
視覚、聴覚はおそらく発達し(といってもテレビオリエンティッドに)、相対的にそのほかの感覚は衰える可能性がある。使わない感覚は少なくとも発達しないし、刺激を受けなければ衰退する可能性が高い。これがテレビの原罪、その1である。
テレビ番組は、どこで、誰が作っているか。圧倒的に東京である。関西をはじめ地方制作の番組がないとはいわない。しかし、全国ネットで放送される割合がどれぐらいあるかといえば、せいぜい全体の数パーセントだろう。
ということは全国ネットで見る番組は、東京の人たちが東京的価値観(がどういうものかという定義はここではカッコに入れておく)に基づいて作られたものである。もちろん、東京的価値観の中にも多様性があることは認める。しかし、全国に散らばって存在する多様な地方的価値観が、東京発の番組に組み込まれることはないだろう。
その結果、何が起こるか。あえていうなら(多様性を持ってはいるが)東京的価値観による全国の均一化である。東京発のドラマに登場する人物、描かれる風景は、仮にそれが地方をテーマとしてはいても東京的価値観に基づいて選ばれ、脚色されている。
そうした価値観に基づいて制作された「おもしろい」番組を見続けているうちに、人はそれが「おもしろい」ものだと思うように洗脳されるだろう。少し飛躍があるかもしれないが、それこそが「価値あるもの」と考えることだってあるだろう。
だから、テレビの影響をより受けやすい(=価値観の確立していない)若い人たちほど、東京へ行きたい、と思うのではないだろうか。さらにいうなら、そうした若い人に残ってもらいたいがために地方都市は軒並み東京ライクな風景になってしまったのではないだろうか。
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