ドイツ人は戦争という過去と、どのように向き合っているのか?松田雅央の時事日想(2/3 ページ)

» 2009年08月11日 08時00分 公開
[松田雅央,Business Media 誠]

 当時のバラックはすべて取り壊され見ることはできないが、壁と監視塔、火葬場の窯は残っており、資料館にはさまざまな資料が展示されている。取材した日も若者から高齢者まで全世界から見学者が訪れていた。社会科見学で記念館に来る小中学校もあり、過去から目をそらさない平和教育の姿勢には感銘を覚える。

 ザクセンハウゼン強制収容所記念館にはないが、ところによってはガス室が残っており「実際に児童生徒を入れて扉を閉める」という究極の体験学習もあるそうだ。もちろん強制ではなくあくまで希望者だけの参加だが、それでも日本人の感覚からすると信じがたい教育手法である。ただ、これは非常に偏った体験であり子どもに対して甚だ不適切と筆者は感じるが、とにかくドイツはそれほどの覚悟を持って平和教育に取り組んでいる。

収容所の壁と監視塔(左)、収容所の火葬場跡(右)

資料館の展示物(有刺鉄線とフェンスの支柱、左)、係員による記念館のガイドツアー(右)

ヒトラーとナチスのやったこと

 ドイツを見習うべきと思う一番の点は、戦争の話をタブーにしないこと。

 以前、ダッハウ強制収容所記念館を見学した後、どうしても戦争についてドイツ人の考えが聞きたくなった筆者は列車の中で隣り合わせたドイツ人に質問したことがある。もちろん、その時初めて知り合った、まったくの他人である。そんなぶしつけな筆者に彼らは怪訝(けげん)な顔をすることもなく、それぞれの意見を語ってくれた。戦争の話題を腫れ物のように扱うのではなく、オープンな議論の中で各人が自分なりの歴史観を組み立てている。

 しかし気になる部分もある。

 それは、ほとんどのドイツ人が「ヒトラーとナチスが起こした戦争と犯罪」という言い方をし「ドイツ人の……」という表現はまずしないことだ。ドイツ人はヒトラーにだまされナチスに扇動されていた。虐殺という戦争犯罪はヒトラーとナチスの罪であり、その他のドイツ人は知り得なかった。戦後補償の義務は新生ドイツとドイツ人が負うが、戦争犯罪の責任はヒトラーとナチスにあるという論法である。

本当に知らなかった

 確かに捕まえられた人々がどこへ連れて行かれ、どのような運命をたどるかを市民は知らなかったのだが、いわゆる知識人にはおおよその見当がついていたと言われている。それに多くのドイツ人がヒトラーに熱狂し不適合者の逮捕に協力していたわけだから、虐殺の責任をヒトラーとナチスだけに押し付けるのはずいぶん虫のいい話ではないか。「ヒトラーとナチス」と「その他の国民」の間にはっきり線を引き、絶対悪である前者にほとんどの罪を背負わせる姿勢は実に都合のいい考え方である。

 そんな話を知人の女性(70歳代)にしたら「その意見はフェアでない」と言われた。10代の子どもだった彼女はもちろん、土木技師をしていた父親も母親も虐殺の事実を当時は知る術はなかった。彼女のお父さんはナチスに非協力的な人で地元の役人と折り合いが悪く、ある日奥さんからこう諭されたそうだ。「逆らい続けると家族にいつか何かが起きる。頼むから止めて」。実際、ある日突然行方不明になり、その後帰ってくることのなかった家族もいたそうだ。

 またこんな話もしてくれた。彼女の家でベビーシッターとして住み込んでいた少女は、近所の捕虜収容所に収監されていたソ連兵の窮状を見かねフェンス越しに食料を投げ込んでいたそうだ。少女の実家は農家なので幸い食料の仕送りは豊富だったという。捕虜収容所は強制収容所のように隠された存在でなかったためできたことだが、もし警備兵に見つかったら少女の身に何が起きたかは分からない。ちなみに食料を投げ込むたび中では奪い合いのケンカが始まったそうだ。

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