『愛があれば大丈夫』はクラシック音楽だった――広瀬香美さん(後編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(3/5 ページ)

» 2009年12月26日 10時53分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

 「初めてロサンゼルスに行ったんですね。そこで、マイケル・ジャクソンやマドンナの音楽に触れて圧倒されたんです。特にマイケル! なんていいメロディなんだろう、そして、なんていい声、なんてうまいダンス!――その時決意したんです。自分の書いた曲をマイケルに歌ってもらおう、と」

 西海岸特有の気候や人情も、広瀬さんには魅力的だったようだ。「カラッとした気候、陽気でポジティブな人たち。私はロスのライフスタイルにすっかり魅了されました。暗かった中学時代の日々とあまりに対照的だったこともあって、余計にそう感じたのかもしれません」

 以降3年間、広瀬さんは、1回あたり2〜3カ月を基本に、幾度となくロスに滞在し、マイケル・ジャクソンに自分の曲を歌ってもらうための努力を重ねることになる。

 

マイケルに楽曲を提供したい!――ロサンゼルスでの日々

広瀬香美さん

 「国立音大では作曲科だったので、作品さえ出しておけば、授業にはそれほど出なくても大丈夫だったんです。それで、ロサンゼルスでポップスの作曲法を学ぶために個人トレーナーにつきました。毎日、午前中は語学学校に通い、午後はレッスンでしたね」

 希望に満ちた日々を送る中で、広瀬さんはあるアドバイスを受ける。「私は声楽的というよりは器楽的な曲を書く傾向が強かったので、歌を歌う練習をした方がいいと薦められたのです」

 広瀬さんの作る歌は、音域が広く、その中で音が急上昇・急降下するなどダイナミックな変化に富んでおり、それが大きな魅力の1つになっている。しかし、それは同時に、一般の人が歌うには、やや難しいとされる原因にもなっているようだ。それは、彼女がヴァイオリンやピアノなどを想定して器楽的な発想で作曲してきたからだとされる。アメリカのトレーナーは、そんな彼女に、音が滑らかにつながってゆく声楽的な発想で作曲ができるようにしてあげようと考えたわけである。

 彼女はマイケル・ジャクソンのボイストレーナーであるセス・リグス氏のオーデションを受け、東洋人で初の合格者となった。マイケルに曲を提供する夢に向けて一歩近づいた瞬間だった。

 国立音大を無事卒業後、広瀬さんは渡米して約3年間、リグスの教えを受けた。「とにかく褒め上手な先生で、毎回、歌うのが楽しくて仕方がなかったですね。そのおかげで、声がよく伸びるようになっていったんです」広瀬さんの特徴である、ぐんぐん伸びるあのハイトーンボイスは、リグス氏のボイストレーニングによって花開いたものだったのだ。

 やがて彼女は、自分の曲のデモテープ作りを始める。「でも、私の曲を歌ってくれる日本人がその頃ロサンゼルスにいなかったので、全部自分で歌っていました。そうしたら、(曲よりも先に)声の方が評価されてしまって(笑)。日本から“歌手”のオファーが来たんです。マイケルに曲を提供するという目標に向けて動いていた私としては、違和感を覚えましたね。正直言って、日本でのコンサートやライブ活動には、当時、それほど関心がありませんでした」

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