『愛があれば大丈夫』はクラシック音楽だった――広瀬香美さん(後編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(2/5 ページ)

» 2009年12月26日 10時53分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

クラシック音楽の作曲家を目指して――辛かった中学時代

広瀬香美さん

 広瀬香美さんは、福岡県で生まれ、高校卒業までを地元で過ごした。両親の勧めで4歳からピアノを、5歳からは作曲を習い始める。

 「両親がクラシック音楽好きで、私にもそれを期待したようです」。彼女が最初に買ったレコードはバッハの「マタイ受難曲」だというから、出発点からして一般のクラシック愛好家とはレベルが違った。

 一方、作曲の勉強に関しては、和声学フーガや対位法などの基本理論をみっちりと仕込まれ、やがて(当時の)前衛的な手法で作曲することを求められたという。「でも、そうした前衛的な作品を書こうとしてもうまく行かず、いつもいつも作曲の先生から怒られていました。『君のメロディはポップスなんだよ。クラシックじゃないんだよ』と言われて、毎回、直されていました」

 こうした日々は、次第に広瀬さんを心理的に追い込んでいったようだ。「特に中学校の頃は、クラシック音楽の勉強が嫌でたまらず、学校に行きたくありませんでした。レッスンがあると思うと動悸(どうき)がして具合が悪くなるんですよ。暗い日々でしたね」

 そんな日々に、後に彼女の代表曲のひとつとなる、ある曲が書かれる。「井尻の交差点で、『ああ学校に行きたくないなぁ……』って思っていたときに浮かんだのが、(後にファーストシングルとなる)『愛があれば大丈夫』なんですよ。このときは、ヴァイオリンとピアノのための曲として書いたんですけどね。今でも、私の一番好きな曲なんです。“こりゃ、いいメロディだなあ”って思います(笑)」

 広瀬さんの作品は、ポップスとしてどんなに魅力的でも、クラシックの伝統に立脚し、武満徹氏を初めとする当時の前衛作曲家たちの技法を講じる教育者の目から見れば、いささか異質であったに違いない。しかしこの時期に、苦しい思いをしながらも作曲技法の修錬を積んだことが、後のミリオンヒットアーチストとしての広瀬さんのベースを構築した。

 「私が今あるのは、ほんとうに、この時期にクラシック音楽の作曲を勉強したからだと思います。それは間違いありません」

 広瀬さんは、東京の国立音楽大学の作曲科に合格し上京。やがて人生の転機を迎える。

アメリカのポップス、そして西海岸のライフスタイルに感動

 「大学1年のとき、ペンデレツキ風の作品を作ってくるように言われて『自分にはまったく合わない、そんなの書けない』って思ったんです。今までやってきた何もかもが、一挙に崩れ落ちてゆくのを感じました」

 クシシュトフ・ペンデレツキ(1933〜)は、1950年代末以降、世界のクラシック音楽界で大きな影響力を持った、ポーランドを代表する前衛作曲家である。音の塊で表現する「トーンクラスター」や、在来楽器の特殊奏法、様々な発音体の使用、人声の新しい使用法の開発などで知られ、代表作に「広島の犠牲者に捧げる哀歌」「ルカ受難曲」や、歌劇「ルダンの悪魔」などがある。

 筆者も高校時代に「ルカ受難曲」を聴き、想像を超えた表現方法に大きな衝撃を受けたが、ポップス志向の、そしてメロディメーカーとしての広瀬さんが大きな違和感を覚えたのは無理からぬことだと思う。

 そんな広瀬香美さんに、ある転機が訪れる。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.