価値観が異なる人から裁かれるのは不利?ちきりんの“社会派”で行こう!(2/3 ページ)

» 2010年02月01日 08時00分 公開
[ちきりん,Chikirinの日記]

“常識”が存在しにくい社会

 そもそも移民が多く、多民族が混在する米国では、さまざまな面でいわゆる“常識”が存在しにくいですよね。宗教や価値観、経済状態や教育状態が大きく異なる人々が混在すると、「誰が見ても正しい」という常識が少なくなります。ある人から見ると正しいことが、別の人から見るとそうではない。

 そういう環境において“正しいこと”というのは、「その時代にその地域に住んでいる人の多くが正しいと感じること」と定義されるわけです。だから裁判でも、住民から選ばれた陪審員が有罪か無罪かを決める制度が、最も公平な制度であると考えられます。

 一方、日本は単一民族・単一言語・単一価値観を“前提とした社会”です。もちろん完全にそうだとは言いませんが、米国の多様性のレベルと比較すると、「マジョリティグループのサイズが非常に大きい国だ」と言えます。それならば、裁判でもわざわざ一般の人の意見を入れて判断をする必要はなく、過去の事例や法律をよく分かっている専門家=裁判官が判断をすればいい、と多くの人が思うのも納得できます。

 しかし、最近は日本も変化しています。年配の人と若い人の価値観は大きく変わってきているし、一億総中流ではなくなり、経済格差も大きくなっています。さまざまな価値観を持つ人々が併存する国になると、「あなたたちの常識だけで判断してほしくない」と言う人も増えてくるかもしれません。

 これはビジネスの世界ではすでに常識で、昔はみんな「お金さえあれば大きなクルマに乗りたい」と思っていたのに、今はそうでもありません。お金があってもクルマに興味を持たない人、むしろコンパクトなクルマを欲しがる人も出てきています。一般的な“いいクルマ”という概念はなくなり、それぞれの人が欲しがるクルマが“いいクルマ”と定義されるのです。

 “常識”や“判断基準”にもそういう多様化の流れがあり、“グループ別常識”みたいなものが出てきているように思います。例えば、「働かない男は一人前ではないのか」「子どもが小さい間は母親は家にいるべきか」から始まって、「堕胎や心中の、罪と罰の重さをどうとらえるか」「夫婦間での強姦罪は成り立つか」などなど。日本も国民の大半が合意できる「唯一の正しい答え」が規定できない社会になりつつあるのではないでしょうか。

 日本も陪審員制度とは違いますが、裁判員制度が導入されました。これからも日本人の価値感の多様化はますます進むだろうと考えると、ちきりんは“一般の人の多様な考え方”を裁判に取り入れるのは非常に良い試みだと思っています。

 それは「唯一の正しい答えがある」という社会が、その構成員にとって必ずしも生きやすい社会ではないように思うからです。「何が正しいのか、違う意見の人も含めてみんなで話し合ってみよう」という姿勢こそが、多様なバックグラウンドを持つ人々、異なる考え方をする人々の共生を可能にするのではないでしょうか。

2009年5月21日から日本でも始まった裁判員制度(出典:最高裁判所)

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