なぜ四日市市は「電車」にこだわったのか――私たちが忘れてはいけないこと杉山淳一の時事日想(3/4 ページ)

» 2014年01月31日 08時00分 公開
[杉山淳一,Business Media 誠]

風化されつつある「四日市ぜんそく」の記憶

 四日市公害訴訟が起きた1967年に私は生まれた。四日市ぜんそくや公害病について、私の世代では小学校の教科書に載っていた。小児ぜんそく患者の私は「四日市はなんと恐ろしいところだろう」「四日市には行きたくないな」と思っていた。しかし、それから40年以上が経過し、四日市市の空気はきれいになった。かつての公害病のイメージはほとんどなく、私自身も子供のころの印象はすっかり忘れていた。私のぜんそくは完治していないが、なにも心配なく四日市市のホテルに泊まり、名物のトンテキを食べて満足していた。

 私が平和な夜を過ごせた背景には、被害者の戦い、犠牲者の尊い命と、四日市市の人々の努力があった。この点を私は見過ごしていた。近鉄という民間企業に対する四日市市の態度は理不尽だという意見には変わりない。ただし、その背景に同情すべきところはあった。1年前の記事で私はそこに思い至らなかった。反省しなくてはいけない。

 ただし、四日市ぜんそくを忘れたのは私だけではないようだ。四日市市の公式Webサイトのトップページには公害対策の文字は見当たらないし、四日市市の歴史というページでは、「石油化学工場等の進出は、大気汚染等の公害をもたらしたが、今では環境浄化に努力し」(参照リンク)と1行のみ記載され、年表には「1972年 7月 四日市公害裁判に判決」とあるだけだ。きれいな青空を取り戻したいま、公害の歴史はイメージダウンだから避けたいのだろうか。

四日市市の公害病認定患者数の推移(出典:四日市市、「四日市のかんきょう - 公害対策と環境保全 - 平成24年度版」。ちなみに2012年年3月時点で433人も存在する

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