本連載は、竹鶴孝太郎・監修、書籍『父・マッサンの遺言』(KADOKAWA/角川マガジンズ)から一部抜粋、編集しています。
2014年10月期にスタートしたNHK連続ドラマ小説「マッサン」。
小説のモデルになったのは、日本の本格ウイスキーづくりに情熱を傾けたニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝氏。マッサンとリタの素顔をその息子が語る。
ニッカウヰスキー2代目マスターブレンダー、竹鶴威の回想録。
1952年、社名が大日本果汁株式会社からニッカウヰスキー株式会社に変更になり、東京、大阪に支店、札幌、仙台、名古屋、福岡に出張所を設立、東京都麻布に建設中だった東京工場が竣工した。二級ウイスキーが売れ、関東圏をまかなうためにボトリング工場が必要になってきたのである。
余市蒸溜所がある余市からウイスキーを運ぶためには、貨車を確保して連絡船を経由し、輸送しなければならない。ウイスキーは蒸溜所や工場から出した時点で酒税がかかる。つまり、高い酒税を出荷の時点で会社が立て替えることになる。これらの問題を解決するためにも関東に工場が必要になった。麻布という場所が選ばれたのは「関東というからには東京に建設しようではないか」という政孝親父の提案によるものだった。
麻布に良い物件があるということで行ってみると、官庁の外郭団体が所有していた土地と、蔦(つた)の絡まった、古く立派な建物があった。環境も良く広さも3500坪と申し分ない。政孝親父が日本興業銀行の総裁と面識があったので資金繰りも上手くいき、土地代も含めて2000万円で工場を建てることができた。
現在は工場の面影はまったく残っていないが、ちょうど六本木ヒルズの位置である。当時は近くにスウェーデン大使館と北日ヶ窪団地があった。
工場の敷地内には池があり、じゅんさいが生えていた。よく見ると鯉や亀、ザリガニもいた。「じゅんさいが生えるところは水がきれいで、環境も良いのじゃ」と政孝親父は満足そうだった。窪地になっているので六本木界隈の地下水が池に湧いて出ていたのだが、政孝親父は「あそこは由緒ある池で、必ず主がいるに違いない。だから池を潰した奴には祟(たた)りがあるぞ。本人になければ子孫にあるぞ」と言い、池を埋めることを絶対に許さなかった。
池のすぐ近くには大昔の井戸があり、そこは長州の毛利家の下屋敷跡で、乃木将軍が産湯を使ったとも言い伝えられていた。池のなかには島があり、そこで赤穂浪士の10人が切腹したということで、義士たちを祀(まつ)った碑もあった。赤穂浪士討ち入りの日は弔いのために訪れた人たちと共に彼らの冥福を祈ったものだ。そして何を意図していたのかは分からなかったが、二宮金次郎の像も建てられていた。さまざまな物語があり、由緒ある麻布工場を政孝親父はとても大切にしていた。
工場を稼動した最初の頃は、井戸を掘って、その水をブレンドに使っていた。それだけ当時の六本木周辺の水はきれいだったのである。
主な作業は瓶詰めであったが、銘柄によって瓶の形が違うため機械化が難しく、すべて手作業で行わなければならない。1本ずつ瓶を紙に包み、箱詰めしていく。忙しいときは事務所の人間も総出で手伝うのだが、なかなか思うようにいかずベテランの従業員から「下手ねぇ」と笑われたりしたものだ。
日本経済は好調で、1956年には戦後の日本始まって以来の好景気を「神武景気」などと呼んでいた。
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