スズキが新工場を作る意味――インド自動車戦争が始まる池田直渡「週刊モータージャーナル」(2/3 ページ)

» 2015年02月13日 09時30分 公開
[池田直渡Business Media 誠]

インドの自動車マーケット

 ご存じの方も多いだろうが、スズキは日本の自動車メーカーの中で、最も早くインドに進出した。インドにはもともと、ビルラ財閥やタタ財閥のような財閥企業によって、海外から少数の自動車が輸入されていた。それが後にノックダウン生産へとつながっていったわけだ。

 例えば、かつてのインドを代表するクルマと言えば「ヒンダスタン・アンバサダー」が有名で、これは英国BMCグループ(後のローバー)が1946年に英国で発売したモーリス・オックスフォードが元になっている。1958年からノックダウン生産が始まったこのレトロなクルマは、信じがたいことだが2014年まで生産が続いていた。

HindustanAmbassador かつてのインドを代表するクルマ「ヒンダスタン・アンバサダー」。1946年に英国で発売された「モーリス・オックスフォード」が元になっており、頑丈さがウリ(出典:Wikipedia)

 自動車といえば事実上このアンバサダーしかないインドに、スズキは1980年に上陸。翌年、インド政府76%、スズキ24%の出資でマルチ・ウドヨグ社を設立した。インド国民車構想にのっとって、日本の軽自動車「アルト」に800ccのエンジンを搭載した「マルチ800」を販売。ピーク時にはインドの自動車シェアを寡占する勢いを誇った。なにしろ対抗馬は事実上1946年生まれのヒンダスタン・アンバサダーのみで、これは頑丈さこそ特筆すべきものだったが、あらゆる性能は化石に近く、そのくせ価格はマルチ800の1.5倍。部品供給やメンテナンス面でもマルチ800の圧勝だった。もちろんそれだけの体制は一朝一夕に築けるものではなく、スズキはインド文化の壁に幾度もぶつかりながら、辛抱強くインドでのビジネスを推し進めていったのだ。

インド国民にモータリゼーションをもたらしたマルチ800の後継車、「アルト800」

 1991年、インドは経済危機に直面する。長年にわたる財政赤字と対外債務に加え、頼りにしていた共産圏との貿易が大混乱したからだ。中印戦争と第二次印パ戦争以降、インドは旧ソ連を後ろ盾に中国を背景とするパキスタンと対立してきた。その頃ソ連は崩壊カウントダウンのまっ最中で、この年の年末、ついにソビエト連邦はなくなる。

 さらに悪いことに湾岸戦争で石油が高騰し、一方でリスクの高い中東への出稼ぎによる外貨獲得が激減し、外貨準備高が不足した。通貨危機に陥ったインド政府はルピーを20%切り下げると同時に、親共産主義の方向を改め、経済自由化政策を打ち出した。インド経済は危機的状態だったが、危機の後には成長がやって来る。インド経済はここを起点として、本格的な発展へと向かうのである。

 スズキは経済自由化の恩恵に浴し、1992年に出資比率を26%から50%へ拡大。1994年にはグルガオンに第2工場を開設し、年産20万台体制を確立した。しかし、インドで現地企業と合弁会社を設立していたGMを始めとする外資自動車メーカーもまた次々と持ち株比率を高めて、裁量権を増やしていくのだ。スズキ自身も2002にマルチ・ウドヨグ社を子会社化し、2007年にマルチ・スズキ社に社名を変更した。

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