「働くって、しょせんこんなもんさ」では見えないものがある(2/2 ページ)
「働くこと」に対し、「適当に・そこそこでいい」という冷めた就労観がまん延・沈殿してきている。それに対する私の答えを寓話で紹介したい。
「働くって、しょせんこんなもんさ」
この寓話を作ろうとした動機は、私が企業研修の現場で感じる最近の受講者(=従業員・働き手)たちの「働くこと」に対する冷めた姿勢があります。
私はこれまで、働く人たちをある軸で分けるとすれば、次のような感じかなと把握していました。
ところが実際、企業研修の現場でいろいろ観察してみると、この4つのグループには属さない第5のグループが大きく居座っていることに気付きます。
第5のグループとは、時に忙しく働いたりもしますが、基本的には多忙を嫌い、時に自発的に働くこともしますが、基本的には依存的に働きます。目の前の職・仕事に対し、「適当に、そこそこの程度・範囲で、できれば面倒は背負いたくない」といった冷めた就労観で、日々の「働く」を過ごしている集団です。
彼らの内面の声を代弁すれば、「働くって、しょせんこんなもんさ」とか、「うちの会社の今の仕事って、やっぱ限界あるよね」とか、そんなような感じでしょうか。そうした割り切り、しらけ、ある種のあきらめの境地を持ったその第5のグループは、会社員の中ではメジャーな存在になりつつあるような気すらします。
もちろん、その境地に至った背景は人それぞれにあるでしょう。安易・怠惰で開き直っている場合もあれば、苦渋の体験・出来事を経て、そう閉じこもってしまう場合もあるでしょう。
そんな現況に接して作ったのが、冒頭の寓話です。私がこの寓話で言う「梵鐘」は、「職・仕事・働くこと」の隠喩(メタファー)です。働くことは、本当に奥深い人間の営みです。私たちは職・仕事を通して、無限大に成長が可能ですし、職・仕事から無尽蔵に喜びや感動を引き出すことができます。
「働くって、しょせんこんなもんさ」という人は、お寺の鐘を割り箸で叩いている人です。チン、チーン、カラン、カラン、くらいにしか鳴りません。
しかし、働くことは本来、すごく大きくて立派な梵鐘です。ただ、その立派な形状は、あらかじめ目にははっきり見えません。
こちらが丸太で、どーんと叩けば、ゴォーンと響くものです。そして、その奥深いゴォーンという音は、打った本人のみならず、村中に響いて、人びとに時を知らせ、他者の益となります。鍋・やかんが、せいぜい自分が食べるためだけの益しか果たさないことを考えると、対照的です。
さて、あなたは「働く」という宝物に対して、割り箸でたたきますか? 丸太で叩きますか?(村山昇)
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