富士山行きの鉄道は実現するのか――過去の歴史は「観光VS. 自然」でせめぎあい:杉山淳一の時事日想(2/6 ページ)
世界文化遺産登録が確定的となった富士山で、登山鉄道の動きがある。富士登山鉄道の構想は1910年から始まり、現在まで何度か立ち上がっては消えた。そこには自然保護運動との対立の歴史がある。
「観光振興」と「自然保護」のせめぎあい
富士登山鉄道の構想は、過去に何度も企画されては消えていった。その事例の数々については、元法政大学経済学部長の村串仁三郎氏が2010年に著した論文「富士箱根国立公園内の戦後の観光開発計画と反対運動―戦後後期の国立公園制度の整備・拡充(10)―」に詳しく記されている。その膨大な内容から要約させていただく。
富士登山鉄道の開発は1910年(明治40年)に計画されていた。明治50年を記念した大博覧会に合わせて、鉄道省の技師が計画した。しかし日本山岳会の重鎮が自然保護の観点で反対。結局、明治50年には実現しなかったため、この計画は消滅する。
次は1914年。東京の起業家が御殿場から富士山頂までの鉄道を計画した。しかし地元の反対運動などで許可が下りなかった。3度目は1922年。御殿場側八合目から頂上までのケーブルカーの計画だ。これは山梨県、静岡県から許可されなかった。1924年も別のルートで頂上までのケーブルカー計画が申請された。これも不許可。その理由は「地質的に鉄道の建設は危険であり、信仰の対象となる霊山をけがす行為であり、将来は国立公園とするため自然美を残すべく、遊覧本意の鉄道は避けたい」という趣旨であった。
1928年は富士吉田側の馬返しから八合目までの電気鉄道計画があり、1929年は山梨県知事から五合目までのケーブルカーが提案されたが、どちらも実現しなかった。1935年に「馬返し―五合目」と「五合目―頂上」のケーブルカーが計画された。これは1940年の東京オリンピックの開催に合わせた計画で、スイスのユングフラウやオーストリアのチロルに匹敵する国際的な山岳観光開発を目的とした。こちらも反対を唱える意見が多く、内務省も許可しない方針だったという。その上、東京オリンピックは第二次大戦の影響で中止となり、ケーブルカー計画も立ち消えとなった。このとき、別途計画されていた五合目までの道路案も消滅する。
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