富士山行きの鉄道は実現するのか――過去の歴史は「観光VS. 自然」でせめぎあい:杉山淳一の時事日想(3/6 ページ)
世界文化遺産登録が確定的となった富士山で、登山鉄道の動きがある。富士登山鉄道の構想は1910年から始まり、現在まで何度か立ち上がっては消えた。そこには自然保護運動との対立の歴史がある。
富士スバルラインは妥協の産物
第二次大戦後、1946年に東京の実業家たちが山麓から頂上までのケーブルカーを計画。翌1947年には、東武鉄道社長の二代目根津嘉一郎を中心としたグループが、鉄道とケーブルカーを組み合わせた計画を立案。これらは富士箱根国立公園地方委員会で検討された結果、五合目までを道路で、そこから頂上までをケーブルカーとする案を決定した。ただし、五合目から上の鉄道部分について、国定公園を管轄する厚生省は許可しなかった。国定公園制定後、五合目より上は開発せず、という方針ができていたようだ。
そこで、好景気に沸く1951年には、山梨県出身の実業家によって全線を地下で建設する鉄道案など複数が検討された。これらは話し合いで統合され、吉田から馬返しまでは地上で、馬返しから頂上は地下とした。運輸省も許可しそうな情勢だったという。これに対して日本自然保護協会は反対の陳情書を提出。「すでに五合目までは道路計画がある。これ以上はいらない」という趣旨だ。計画が許可された道路については譲歩した形になっている。
1952年、文部省(現・文部科学省)は富士山全体を天然記念物に指定。厚生省(現・厚生労働省)は1956年に五合目以上を特別保護地区の候補とした。こうして五合目以上は法的な規制がかけられた。しかし、五合目以下は許可が降りた道路の建設が行われた。これが1964年に開通した富士スバルラインだ。
村串氏の論文で振り返ると、富士登山鉄道計画は、観光振興しようとする実業家たちと、自然保護の観点で反対する人々のせめぎあいだった。特に戦後は運輸省(現・国土交通省)対厚生省と文部省の駆け引きのようでもある。富士スバルラインはその「妥協の産物」ともいえる。
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