福島原発に近い「国道6号線」が開通――そこで何を目にしたのか:烏賀陽弘道の時事日想(2/6 ページ)
原発事故後、3年半ぶりに「国道6号線」が開通した。除染作業の人員や物資を輸送するために道路部分だけが開通したが、住民が戻らないままのエリアはどんな姿に変わり果てたのか。筆者の烏賀陽氏が現地リポートする。
政府の規制は無意味
クルマを走らせる。南相馬市の市街地を抜け、田園地帯に出た。かつて20キロラインが国道6号をぶった切っていた地点は、何の変哲もない田んぼの真ん中である。あっという間に通り過ぎた。
ここには何度も取材に来た。ドライブインの横、自動精米機の前に検問のゲートがあった。機動隊車両が何台も止まり警察官が道路を封鎖していていた。封鎖ゲートの向こうに広がる家や駅を見ながら、原発災害のために無人になった土地になんとかして取材に入りたい、とため息をついた。取材に入ったフリーの記者が何人も逮捕されていた。
入れないのは住民も同じだった。震災1周年の2012年3月11日には、花束を持った人々がここに集まり、焼香し、合掌していた。完全に立ち入り禁止の20キロラインの内側でも、津波でたくさんの人が亡くなっていた。
かつて封鎖ラインで線量計をかざすと、毎時0.2〜0.3マイクロシーベルトだったのを覚えている。それでも中に入ると逮捕された。今は平均毎時3.8マイクロシーベルト、最大値は毎時17.3マイクロシーベルトを自由に通れる。このへんの政府の規制の無意味さは、あまりにバカバカしい矛盾の積み重ねで、もう笑う気すら起きない(詳しくは拙著『原発難民』PHP新書参照)
それ以来、少しずつ封鎖の検問は南へ南へと後退した。完全立ち入り禁止の警戒区域が「立ち入ってもいいが住んではいけない」「除染が済んだら住んでもいい」「依然立ち入りもだめ」の3種類に再編されたりと、ややこしい行政区分上の変更があったからだ。そのたびに、新しい封鎖ゲートを見に国道6号を南に走った。警察官は少なくなり、民間の警備員になった。しかし、原発から10キロほどの地点で封鎖は動かなくなった。そこから先はどうしても行けなかった。
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