福島原発に近い「国道6号線」が開通――そこで何を目にしたのか:烏賀陽弘道の時事日想(3/6 ページ)
原発事故後、3年半ぶりに「国道6号線」が開通した。除染作業の人員や物資を輸送するために道路部分だけが開通したが、住民が戻らないままのエリアはどんな姿に変わり果てたのか。筆者の烏賀陽氏が現地リポートする。
津波によってあちこちが寸断
が、そこに到達する前に、私はすでに暗い気持ちになっていた。国道の両側に、津波が破壊したパチンコ屋や自動車修理工場がそのまま廃墟になって放置されていた。この一帯は、ずっと早く、2012年夏には封鎖が解除されたはずだ。クルマを降りてパチンコ屋だった廃墟に近づいてみた。建材やパチンコ台だったものががれきになって、無秩序に積み上がっていた。海から運ばれた泥の匂いがした。海から風が吹いて、天井からぶら下がった鉄骨がギコギコと鳴った。
この一帯は津波が国道を越え、JR常磐線の線路を超えて3キロも内陸を襲った。ホームセンターやスーパーマーケットに津波がなだれ込み、場内を化粧品やシャンプー瓶の練り込まれた泥の渦にした。
JR常磐線の小高駅に行ってみた。駅前広場は、枯れ草が風でたなびく草原になっていた。自転車置き場では倒れた自転車が錆び付き、雑草にからめとられている。ホームの上では、駅名票と自動販売機がつる草に飲み込まれようとしている。
津波であちこち寸断された常磐線はまだ復旧していない。開通させたくても、線路のかなりの部分が福島第一原発に近い高線量地帯を通っている。生活インフラの基本である鉄道が機能しないままなのだ。
駅前商店街はがらんとしていた。人がいなかった。クルマの往来もない。レンタカーを降りて歩いてみた。震災の年の夏に来たことがある。その後片付けが入ったのだろう。落ちた商品が散乱していた書店や文具店はきれいになっていた。倒壊したり傾いた家屋は片付けられていた。しかし、人がいない。物音がしない。冷たい風が吹き抜ける音だけが聞こえる。
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