フクシマの被災者たちは忘れられつつある――社会の「忘却」は“残酷”:烏賀陽弘道の時事日想(6/7 ページ)
東日本大震災から4年が経ったが、避難生活を続ける人は、福島県だけでまだ約12万2000人(2014年末)もいる。避難生活を続ける人たちはどうしているのだろうか。筆者の烏賀陽氏は、ある家族の「一時帰宅」に同行した。
プレハブの仮設住宅が「家」
いわき市の仮設住宅に着いて、話の続きを聞いた。富岡町の家と仮設の違いも見届けたかったのだ。
2階建て一戸建ての家と違い、仮設住宅は4畳半二間に台所とユニットバスがあるだけだ。朝5時、隣の足音で目が覚める。くしゃみの音が聞こえる。富岡の家では考えられなかったことだ。お互いさまだから、と我慢する。
「仮設の中でじっと息を潜めて、おとなしくしているんですよ」
千賀子さんが笑いながらいう。
4畳半の部屋はこたつとテレビ、ソファを置くともう床が見えなくなる。
犬のコタロウ君が走り回っている。長年飼っていたキャバリア犬は震災の3カ月後に死んでしまった。親が寂しがるから、とバイオ化学の研究者になった息子さんが初めてのボーナスで買ってくれた。
富岡町の家にいるときより、2人の表情が柔らかい。くつろいでいる。それはそうだろう。もう4年、このプレハブの仮設住宅が「家」なのだ。
「仮設も4年いると慣れるというより馴染んでしまいます……自分のすみかではない、いつまでも続かないとは分かっているのですが」
清士さんは自治会の副会長だった。このいわき市泉玉露にある仮設住宅団地は富岡町からの避難者が暮らしている。が、同じ町内にいたというだけで、何の面識もない人たちがランダムに部屋を決められた。知り合いにはほとんど会わない。人間関係をゼロから作り直す作業から始まった。
千賀子さんは週2回集会所で「ほっこりカフェ」という茶話会を開いている。住民たちが孤立しないよう、ストレスで健康を害さないよう、本音を言える場所をつくっている。
「私たちの生活は2011年3月11日にブチッと切れてしまって、そのままなんです」
千賀子さんが言った。
「東京のボランティアの方なんかは『被災者はもっと怒らなきゃダメだ』とおっしゃるのですが、ずっと混乱が続いているから、まだ怒る余裕がないんです。
ずっとフタが開いたままのような状態なので、心が残ったままなんです。納得がいかない。だから怒ることもできない」
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