東向島珈琲店が、訪れる人々の「時間」「空間」「仲間」が良くなる場所作りを目指してオープンしたのは2006年のことだった。「間」という字は人と人の距離感をも意味する。井奈波さんは「間合い」という言葉をよく口にする。すなわち、お店とお客の距離感だ。
マスターはお客が会話を望んでいるのか、そっとしておいてほしいのかを気配で察し、他方、マスターと言葉を交わしたいお客はマスターの手が空いたタイミングを見計らって声を掛ける。双方の配慮によって心地よい間合いが成立するのだ。
「上手に間合いのとれる人に一生懸命な相談を受けると、応援したくなってしまうんですよ」
私はいま「ヒガムコシャツ」と名づけられた極上の着心地のシャツに身を包んで原稿を書いているのだが、このシャツは墨田区のアパレル会社、ピースに東向島珈琲店が協力して生まれたものだ。その第一歩には、やはり快い間合いが不可欠だった。
ピースは丹念な手仕事による伝統的染色法「東炊き」の生地を使用した自社の新ブランド「かこい」のカタログ制作にあたり、撮影の舞台として以前から通っていた東向島珈琲店に相談をもちかけた。
「そのときピースさんは閉店時間になるまでずっと寡黙に待っていて、僕が全ての作業を終えてから間合いを計って声を掛けてこられた。お話を聞くと大変良いことをされているので、ぜひ協力させてくださいと言ったんです」
墨田区の川合染工場が手掛ける東炊きは、小さな釜で生地をじっくりと染め、屋上で天日干しにして仕上げる。1つ1つの工程を昔ながらの手作業で行うため膨大な時間と手間がかかるが、完成品は独特の豊かな風合いと柔らかでふっくらした肌触りをもっている。
東向島珈琲店は写真撮影の舞台として協力するにとどまらず、カタログのデザインやモデルを墨田区で活躍する仲間に発注。またカフェスタッフの制服として、東炊きの生地を使ったオリジナルシャツの制作をピースに依頼した。
完成したヒガムコシャツの実物を私が井奈波さんに見せてもらったのは、たまたま10着限定の受注受付期間中だった。実物に両手で触れてみて、しなやかで優しい肌触りとシンプルで洗練されたデザインに惹かれて注文したのが、いま着用中のシャツなのだ。
一人の熟練した縫い子さんが責任をもって縫製を担当したシャツは、首筋や肩、腕にかけて直接触れる生地の感触が想像以上に素晴らしい。一日中ずっと包まれていたくなる。
「大切にしているのは生地の魅力を伝えること、パターンと縫製に妥協しないことです」とピース代表の平澤和夫さんは語る。ヒガムコシャツはまだ発展途上であり、今後も進化を続けるという。
──そもそも、なぜ東向島珈琲店に協力を依頼しようと考えたのですか?
「マスターのセンスの良さや、人のつなぎ役みたいなところが、まるで絵本に登場するみたいで魅力を感じました。特定の絵本をイメージしたわけじゃないんですが」
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