世の中に登場して半世紀しか経たないコンピュータにも、歴史が動いた「瞬間」はいくつも挙げることができる。ここに紹介する「ビジュアル」もまさしくそのひとコマ――。
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iPod touchで話題のアップルコンピュータ。その日本法人である、アップルコンピュータジャパン(以下、アップルジャパン)に、初の日本人社長が誕生したのは1989年3月のことだ。就任したのは東芝ヨーロッパ上級副社長から転身した武内重親氏だ。
それまでのアップルジャパンと言えば、会社設立6年を経過しても「アップルの日本法人」とは名ばかりの存在で、むしろ、国内流通量の大半を占めていたキヤノン販売の方が、米アップル本社に対する発言力を持っていた。
当時のアップル関係者の発言のなかにも「アップルジャパンの役割は、キヤノン販売を中心とした、いまの自然の流れに手をつけないでおくこと」という声があったほどで、アップルジャパンの存在そのものが疑問視されていた。アップルジャパンを管轄していた上部組織のアップルパシフィックが、日本はカナダ、オーストラリアに次ぐ市場規模しかないと認識しており、自ずと対応が後回しになっていたという事情もあったにせよ、特異な状況であったことは否めない。
そこに日本人社長が誕生したのというのは、きわめてエポックメイキングな出来事であった。日本人の社長就任は、アップルジャパンに営業/マーケティング会社としての本来の役割を与え、キヤノン販売一辺倒の構造から脱皮するきっかけをつくることになった。
新社長就任会見の席上、アップルパシフィックのデルバート・W・ヨーカム社長は「本当の意味で、日本法人が設立できたと考えている。日本人社長の登板によって、アップルジャパンを日本に根ざした企業に成長させる基盤ができた」とコメントしたが、いま振り返れば、これもキヤノン販売主導の体制からの脱皮を意識した発言ととれなくもない。
その後、アップルジャパンは武内社長の主導のもと、流通制度の改革に挑んでいくことになる。
17社の代理店がありながらキヤノン販売に傾注していた体制を是正するため、米本社および国内の流通各社に対するアップルジャパンの発言力を高めるとともに、関東電子など「キヤノン販売対抗勢力」を擁立、流通の分散化が進められた。同時に、NECをはじめとする国内パソコンメーカーに大きく差をつけられていた日本語対応機能の強化にも乗り出し、日本語FEP(入力システム)である漢字トークや日本語対応プリンタのラインアップ、さらにはMacintosh対応ソフトの開発を促進するために、日本にデペロッパーサポートチームを設けるなどの取り組みを開始した。
実は、武内社長の就任以前から、アップルはそれまでの米国主導の体制から、日本人による新体制確立に乗り出していた。
武内社長の就任半年前の1998年9月には、のちにアドビシステムズ、SASインスティチュートなどの社長を歴任する堀昭一氏が副社長として入社したのを皮切りに、デジタルリサーチでCP/Mの普及戦略を手がけた実績を持ち、アップル退社後にはコンパック日本法人の設立に尽力した石内祥介氏がテクニカルサポート担当として参画。また、セールス担当には、シマンテックを国内ナンバーワン・セキュリティベンダーに育てることになる成田明彦氏が就いた。
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