連載
» 2001年08月07日 12時00分 UPDATE

eビジネスが生み出すエクスペリエンス(1):時代のキーワード:“エクスペリエンス”とは何か

[鈴木貴博(ネットイヤーグループ株式会社),@IT]

今回の内容

  • エクスペリエンスというキーワード
  • 新しいエクスペリエンスを渇望する世界
  • エクスペリエンスの時代への突入

エクスペリエンスというキーワード

 ITの世界でおそらく、いま最も注目を集めている言葉はエクスペリエンスであろう。少なくとも、米国のeビジネス関係者にとっては、一番重要な戦略目標であるのは間違いない。マイクロソフトが新しいOSやOfficeのキーワードとして「エクスペリエンス」を採用したことで日本でもこの言葉の認知率は高まったが、その意味するところについてはまだまだ浸透しているとはいえない。

 さて、エクスペリエンスとは「体験」と訳す向きもあるが、この訳はあまり適切ではない。一言でいえば「これまでになかった体験」と表した方がピンとくる概念である。具体例を挙げよう。

r1image01.jpg ソニーの初代ウォークマン「TPS-L2」。その登場は、「音楽を屋外に持ち出す」という新しい体験をユーザーにもたらした

 1980年代に急速に世の中に広まったソニーの「ウォークマン」は、現在流に表せば「エクスペリエンス」だった。ウォークマンの出現以前は音楽といえば「建物の中で耳にするもの」であり、「自由に外に持ち出すことはできないもの」であった。ソニーの故・盛田会長の著書『Made

in Japan』中のエピソードに、かつて盛田氏が滞在したニューヨークで、若者が路上で大きなラジカセを肩に担ぎながら音楽をストリートで楽しんでいる光景を目にして、「音楽を外に持ち出す」ことの市場性を確信したというくだりがある。盛田氏のその確信どおり、ウォークマンは世界的な大ヒット商品となり、世界中の人々のライフスタイルを大きく変えることになった。

 エクスペリエンスの定義をもう少し明確にしてみよう。「これまでになかった体験」に加えてもう1つ重要な要素がある。それは「これまで妥協してきたものを打ち破るもの」という定義である。先のウォークマンの例でいえば、「通勤電車の中や買い物で街を歩いているときには、好きな音楽は聴けない。なぜならラジカセは重たいし、持ち出してもイヤホンは音質が良くない」といった「音楽を屋外に持ち出せない理由」が存在していた。われわれはウォークマン以前はこれらの理由を当然のこととして受け入れ、「屋外では自由に音楽を聴かなくてもいい」と妥協してきたのである。

 同じくソニーの製品で別の例を挙げみよう。家庭用VTRの登場は、「連続ドラマを見るためには放送時間までに家に帰らなければならない」という妥協を打ち破ってくれた。パスポートサイズの8ミリビデオの出現は、「自分の子供の成長を簡単に記録するのは静止画、つまり写真以外にはない」という当時の妥協を打ち破ってくれた。

 このようにウォークマンも家庭用VTRも8ミリビデオもすべて「エクスペリエンス」をわれわれに提供してくれた製品である。

 ではいま、なぜ急速にこのエクスペリエンスが注目を集めているのか。そこにITの登場がある。平たくいえば、IT技術を用いることで「妥協してきたものを打ち破るこれまでなかった体験」を提供できる可能性が飛躍的に増えたからである。その具体例が、例えばインターネットを用いた新しいエクスペリエンスである。

 eメール以前は、他人と連絡を取り合うのには、家あるいは職場に電話をかけるか(どちらにいるか把握しなければならないし、相手が忙しくない時間を見計らってかけなければならなかった)、場合によっては手紙を書くか、いまにして思えば不便な世界だった。

 アマゾン・ドット・コムやeショッピングブックスの登場以前は、本が欲しいなら必ず書店に出向かなければならなかったし、10冊も本を買い込んだ日にはひいひいいいながら自宅まで持ち運ぶ必要があった。インターネットが当初爆発的に人々の関心を集めたのは、この新しいエクスペリエンスの可能性が彼らの興味を強く刺激したからである。

新しいエクスペリエンスを渇望する世界

 このように説明すると、インターネットをベースにしたビジネスモデルはすべて「エクスペリエンス」であるかのように受け取られるかもしれない。しかし、答えはおそらくそうではない。

 1つは、インターネットの黎明期には目新しかった体験も、いまでは慣れてしまったため、必ずしもそうではなくなってしまったものが多いということ。もう1つの、もっと重要な理由は、「妥協を打ち破る」はずの“ビジネスモデル”とやらが、それが標榜するほど使いやすくない──むしろ「パソコンもインターネットも使いにくいものなんだけれどそれは仕方がない」という新たな妥協をユーザーに強いてしまっている現実がある。

 とりわけ日本においては、エクスペリエンスの設計というのはそれほど重要視されていない。

 例えば、パソコンを購入したときに付いてくる膨大なマニュアル。マニュアルは通常多数の分冊からなる。特にパソコン初心者は「まず最初にお読みください」(10ページ程度で梱包を解いてマシンやケーブル類の接続方法やスイッチの入れ方などについて述べたもの)から始まり「パソコン本体のマニュアル」(おそらくこの100ページぐらいのマニュアルに一応目を通さないと基本構造は分からない)の2つを精読したうえで、「できる×××」のようなマニュアル本と呼ばれる市販の書籍(添付のWindowsマニュアルは難しいので多くのパソコン初心者はこうした書籍を購入するか、パソコンスクールに通う)と「付属のソフトウェアについて」といったマニュアル(例えばワープロソフトやデジカメのプリント用ソフトなどで、付属ソフトが多ければマニュアルも多くなる。こちらも市販本が必要な場合もある)に目を通さないとパソコンの世界に入ることができない。とてもエクスペリエンスが設計されている状況とはいいづらいのがパソコンの世界といえる。

 これはパソコンを前にして、われわれが当たり前のように妥協してしまっているのである。そして、これはいつかは打ち破られるべき妥協なのだ。現に家庭用コンピュータともいえるプレイステーションは、ユーザーにこの対極ともいえるエクスペリエンスを提供している。

 プレイステーションは購入してくると、たぶん家庭用VTRやラジカセと同じくらい簡単に設置できる。小学生のうちの娘でもできるだろう。しかもその上で走るソフトウェア(つまりゲームソフト)はすべて「直感的に操作できる」ものばかりである。おそらく家庭用ゲーム機のソフトで、パソコン学校に通ってインストラクターに使い方を教授してもらわなければ遊べないものは、1本も発売されていない。

 パソコンについては、コンピュータ会社にお願いするとして、インターネットビジネスを行っているWebサイトを覗いてみても、エクスペリエンスについてはお寒い状態だ。

 まず圧倒的多数は「迷路のように目的地にたどり着けないサイト」になってしまっている。インターネットユーザーは、新製品の情報が欲しいとか、預金口座を開きたいとか、電車の時刻表を調べたいとか、何らかの目的を持ってサイトにやって来るものだ。ところが、多くのサイトがエクスペリエンスの設計を重視していないがために、「情報は存在するが、情報までの道筋が分からない」サイトが続出してしまっている。この状況は「1ページ、1ページを表示するのに時間がかかる」という日本の通信事情と相まって「もうやってられないから別のサイトを探してみよう」あるいは「インターネットで探すのはやめよう」という結果を生み出している。

 本来、生活が便利な方向に変わるのではないかという期待感をベースに増加してきたインターネットユーザーが、真のエクスペリエンスを心から渇望する状況が生まれているのである。

エクスペリエンスの時代への突入

 実は成功しているeビジネス、つまり世の中から支持され、収益化への道筋が見えているeビジネスと、失敗するeビジネスの違いはエクスペリエンスの設計にあるといわれている。具体例をご覧いただこう。

 海外への出張が多く、レンタカーを使う方はハーツ社のハーツ#1クラブゴールドという会員制のサービスをご存じの方も多いだろう。例えば私がサンフランシスコ出張に出掛けたとしよう。車の予約は普通のユーザーも#1クラブゴールド会員も、さしてエクスペリエンスとしては変わらないかもしれない。違いは空港に到着してからである。

 もし私が普通のユーザーだとすると、12時間のフライトを終えて荷物をピックアップしてHertz社のピックアップバスに乗り込んでから(通常、すでに到着後1時間ぐらい経過している)、さらにうんざりすることになる。それはレンタカー会社のカウンターの行列だ。おそらく先約が20名ほど列を成している。4〜5カ所のカウンターが開いているが、それでも自分の番がくるまでに待つだけでうんざりしてしまうような時間がかかる。ようやく自分の番がくると、なぜ列の進み方が遅いのかが分かる。まずは予約した乗用車のグレードの確認、免許証の確認、クレジットカードの提示から始まり、損害賠償保険の範囲を決めたり、返却時のガソリンをどうするかについてのオプションの決定など、カウンターで15分以上もいろいろな手続きを行うことになる。最後に一通り書類に目を通してサインをすることで、ようやく自分が運転できる乗用車に対面できるというわけである。

 もし私がハーツ#1クラブゴールド会員だったら、話はまったく違う。空港で荷物をピックアップして、Hertz社のバスに乗り込むと「ハーツ#1クラブゴールド会員の方は先にここで降りてください」という社内アナウンスがある。車を降りてみると「Welcome

Mr. Takahiro Suzuki(鈴木貴博様ようこそ)」という電光掲示板のメッセージとともに、私が乗るべき乗用車がかぎ付きで駐車場に置いてある。普通会員が行うべき各種の確認手続きは、すべて「いつものやつで」ということで済んでいるのである。

 このハーツ#1クラブゴールドという仕組みは、全米の多忙なビジネスマンにまったく新しいエクスペリエンスを提供した。考えてみれば極めてIT的かつインターネット的なエクスペリエンスだ。私のいつもの情報をハーツ社のほうで持っていてくれる、つまりITのデータベースが存在し、しかもそれをITのセキュリティが守ってくれるとともに、私の出張先のハーツの営業所にネットワークでその情報が送られているからこそ成立するという意味においてはIT抜きにはこのエクスペリエンスは提供できない

 一方で、なぜほかのレンタカー会社が同様なサービスを展開できないのであろうか。実は、このハーツ型のエクスペリエンスを提供するに当たっては、営業所の業務フローの再設計、基幹系の予約システムの改変、顧客とのインターフェイスの再設計、マーケティングプログラムの見直しなどレンタカー会社が行うべき仕事をすべて横断してユーザーエクスペリエンスデザインをやり直さなければならない。ハーツ社はこの野心的なビジネスプロセスの再設計をわずか2年間で成し遂げた。他社はハーツの新しいエクスペリエンス出現後数年たっても、まだ新しいビジネスプロセスの設計に成功していない。このレベルのエクスペリエンスの設計には、高度なITの知識と、深い顧客プロセスに対する洞察が必要なのである。

 ハーツの例は、いま多くのサービス産業が直面している課題を内包している。単にインターネットをちょっと活用して新しいサービスを始めるという世界と、本格的な業務プロセスを再設計して、新たなシステム投資を行って新しいエクスペリエンスを提供する世界では明らかにかかわるべき人々の数、部署の数、打破すべき課題の量が異なるのである。そしていま、世の中で渇望されている新たなエクスペリエンスは、後者のアプローチが不可欠なレベルに突入しているのである。

 これからのシリーズでは、さらに具体的に掘り下げて、エクスペリエンスがどのようにビジネスを変えていくのかという点や、どうすれば顧客から大きな支持を得るエクスペリエンスが設計できるのかという点について論じていきたい。


連載記事の内容について、ご質問がある方は<@IT IT Business Review 会議室>へどうぞ。

著者紹介

鈴木貴博(すずき たかひろ)

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ネットイヤーグループ株式会社取締役SIPS(ストラテジック・インターネット・プロフェッショナル・サービス)事業部長。SIPS事業部全体のマネージメントを担当している。組織改編以前は取締役チーフストラテジックオフィサー(CSO)としてビジネス戦略に携わる。

ネットイヤーグループ株式会社入社以前は、コンサルタントとしてボストンコンサルティンググループに勤務。ビジネス戦略コンサルティングを専門とし、13年間にわたり超大手ハイテク企業等、経営トップをクライアントとしてきた。エレクトリックコマース戦略、メディア戦略、モバイル戦略など未来戦略に 関わるプロジェクトの責任者を歴任。

ハイテク以外の業種に対してもCRM(顧客リレーションシップマネジメント)、金融ビッグバン対応、規制緩和戦略、日本市場参入戦略などさまざまなプロジェクトを経験。ネットイヤーグループ入社直前には、米国サン・マイクロシステムズ社のためM&Aの戦略立案を行った。

ネットイヤーグループ株式会社

日本で初めてのSIPS(戦略的インターネットプロフェッショナルサービス)会社。SIPSは「戦略」「テクノロジー」「ユーザーエクスペリエンス

デザイン」の専門チームにより成功するeビジネスを支援し、大規模なeビジネスのパートナーとしてビジネスモデル構築、ソリューション開発、ユーザーインターフェースデザインなどをエンド・トゥ・エンドで提供する。2001年2月にはeCRM事業部を立ち上げ、SIPS事業における戦略分野として、eCRM事業を推進している。

メールアドレス:jack@netyear.net

ホームページ:http://www.netyear.net/


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