2010年には中古車販売業の拠点を千葉から銀座に移転した。「銀座には中古車販売業者がなかったので、狙い目だと思いました」。移転して程なく、買い取り依頼の電話がかかってきた。車を見るべく、先方の指定した晴海に向かったところ、そこはシステムダイアリーだったのだ。
当時の同社は、創業者の奈良総一郎氏が高齢になったこともあり事業の継続そのものが課題だった。車を売るのも閉鎖のためだった。そもそもその年(2010年)の5月には奈良氏が倒れ、事業も事実上ストップしていたのだ。また、最盛期の1980年代後半には2億円前後あった年間売り上げも10分の1以下になっていた。
そこで漆谷氏は提案をした。「僕、システムダイアリー使ってたんで(会社)やってもいいですよ」
そのあまりの話のなりゆきに先方は「……」と絶句したそうだ。そもそもシステムダイアリーの事業を継承したい人はたくさんいたらしい。銀行や印刷業者、それにユーザーなどが手を上げていた。そこに現れたのが漆谷氏だったのだ。
突然の提案に、奈良氏一族が協議して3つの条件を出してきた。
それまでの候補者は、上記の条件を満たしていなかった。漆谷氏は車の会社もやっているし、手帳も使っている。そして資金力も評価された。
かくして漆谷氏はシステムダイアリーの事業を引き継いだ。8人いた社員を5人まで整理し、製品システムの刷新とリニューアルに取り掛かった。これが新生システムダイアリーのスタートになった。
それまでのシステムダイアリーは、営業努力をほとんどしてこなかったという。システムダイアリーのユーザーは、ずっとシステムダイアリーを使っており浮気はしない。だから製品の供給状況が悪くなってきても、耐えていたらしい。
そこで漆谷氏は、北海道以外の全国の販売店を回った。すると「システムダイアリーが初めて営業に来た」と驚かれたという。これはそれほど営業していなかったことの裏返しだろう。また、売り場での商品の現状にも驚いた。古い商品がシステム手帳売り場の片隅に少し置かれていただけだからだ。
これは漆谷氏にとって全く新しいジャンルへの挑戦でもあった。確かに自動車販売店を経営してはいるが、文房具業界は未知の世界。それに今までは商品を販売店に送るだけで、何がどう売れているのか把握できていなかったこともあり、取扱店回りを一からやった。
ある販売店では品出し(在庫を店頭に陳列していくこと)もやった。そして注文したものがすぐに入るシステムを構築することを心掛けた。これは実家での経験が生きている。
もともと漆谷氏の実家は、糸問屋だった。店の方針は、朝電話で注文を受けて、その日に配達すること。顧客の「今日欲しい。明日は要らない」とする要望に応えていた。
漆谷氏はこのやり方をシステムダイアリーの商品にも適用した。都内の主要ターミナル駅近辺の各取扱い店については、午後2時までに注文を受けるとその日に配達した。これは大きな変化だった。何しろそれまで注文した商品が入荷するのに1週間もかかっていたからだ。
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