当時はもりそばの値段が1枚1〜2銭程度なのに対して、ビールは500ミリリットルで10銭と高価であったが、恵比寿ビヤホールがビールの大衆化に果たした役割は大きい。銀座にビヤホールをオープンしようという発想は、当時の日本麦酒社長・馬越恭平(まこしきょうへい)氏のアイデアであった。目的は恵比寿ビールの宣伝。
日本麦酒がドイツ人技師のカール・カイザー氏を招聘(しょうへい)して醸造された恵比寿ビールは、本格派ピルスナービールとして発売当初より人気が高く、すぐに東京を代表するビールブランドとなった。日清戦争後の1895年には、国内最大の生産量に躍り出ている。
明治維新から西洋に学び、世界の列強に肩を並べようと産業革命を推進してきた一つのシンボルが、東京一売れている恵比寿ビールであり、そのビールを一番おいしく飲める最先端の場所が銀座の恵比寿ビヤホールというわけだ。
実は、ビヤホール形式の常設店舗は、恵比寿ビヤホールより一足早く、2年前の1897年に現在のアサヒビールの前身である大阪麦酒により、大阪・中之島に「アサヒ軒」がオープンし、ジョッキを片手にビールを楽しむ顧客で大盛況になっていた。
しかし、“ビヤホール”という名称を最初に使ったのが恵比寿ビヤホールなので、こちらが日本初のビヤホールになる。ちなみに、ビヤホールは和製英語であり、欧米にビヤホールなる業態は存在しない。ビヤサロン、ビヤルームなどとする案もあったという。
1911年には銀座4丁目交差点角に、パリのカフェにならって、「カフェー・ライオン」を開業。経営は、現在の西洋料理店「上野精養軒」の前身、「築地精養軒」であった。ライオンの店名は、ロンドンの中心地ピカデリーサーカスで営業していたレストラン「ライオン」にあやかったと言われるが、ライオンは英国王室の紋章でもあり、七つの海を制覇した英国のように、レストランの頂点を極めたいという野心もあっただろう。
カフェー・ライオンはバーや宴会場を備えた、先端的な“純粋欧米式”レストランとして多くの文化人にも愛され、銀座の名所の1つとなった。1931年に経営は、日本麦酒と大阪麦酒、現在のサッポロビールの前身の1つである札幌麦酒が大合同した会社、大日本麦酒に移り「ライオンヱビスビヤホール」と店名、業態を変更する。この店が、今年9月にオープンした複合商業施設「GINZA PLACE」に連なっていく。
ビヤホールになった後も、お客からは「銀座ライオン」の通称・愛称で呼ばれており、ついに戦後の1949年には正式な店名として「銀座ライオン」が採用された。
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