NHK大河「麒麟がくる」明智光秀の意外な“危機管理能力”と本能寺の変の真相――時代考証担当の研究者が迫るビジネスにも通じるリーダー論(2/5 ページ)

» 2020年03月15日 07時00分 公開
[小和田哲男ITmedia]
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光秀、実は大変な「部下思い」

 まず信長は、光秀の軍略を高く買っていた。さらに、「京都奉行」といった役割をつつがなく果たした、施政者としての光秀の能力を、信長は高く評価していた。ただ、信長が最も高く買っていたのは、光秀が持っていた「京都人脈」だった。つまり、上洛(じょうらく)して天下人となった信長にとって、朝廷や公家と仲良く交流できる、文化人としての光秀の能力は大変貴重だった。

photo 小和田哲男(おわだ・てつお)。1944年静岡市生まれ。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了(文学博士)。静岡大学講師、助教授、教授を経て、現在、静岡大学名誉教授(日本中世史専攻)。戦国時代史研究の第一人者。NHK「歴史秘話ヒストリア」「知恵泉」など歴史番組での解説に定評がある。2020年「麒麟がくる」をはじめ数多くのNHK大河ドラマで時代考証を担当。

 かつて明智光秀といえば、昔のNHK大河ドラマ「国盗り物語」(1973年)で描かれた、思慮深いが暗い人物のイメージが強かった。

 明智光秀が思慮深い人物であったことはまちがいないと思われる。

 開けっぴろげな性格であった秀吉にくらべると、確かに光秀は暗い人物といえるかもしれない。その後江戸時代の書物で「秀吉は豪放(ごうほう)磊落(らいらく)、光秀は慇懃(いんぎん)」というイメージが世間に広く定着することになった。

 また、光秀は大変な部下思いであった。戦いで死んだ家臣の供養米を、お寺に寄進していることが分かっている。それも名のある武士だけでなく、名字がなく足軽より身分が低い中間(ちゅうげん)まで供養している。珍しい武将だと思う。

 亡くなった家臣の子どもを手助けしよう、といった文書を出す例は他の武将にもある。だが、中間のような「雑兵」にまで供養米を寄進する武将は、光秀だけではないかと思われる。

 こうした光秀の人柄が、戦乱に次ぐ戦乱のなかで、信長家臣団をまとめる上でも貴重な役割を果たしたことは、想像に難くない。

 明智光秀といえば、誰もが反射的に本能寺の変を思い浮かべるにちがいない。光秀が本能寺を襲い、信長を殺したことはまちがいないし、主(しゅう)殺し、謀反人のレッテルを貼られていることも確かである。しかし、そのことだけが取りあげられるため、光秀の功績にはあまり目が向けられていないように思われる。

 明智光秀は、信長家臣団の出世頭だった。

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