NHK大河「麒麟がくる」明智光秀の意外な“危機管理能力”と本能寺の変の真相――時代考証担当の研究者が迫るビジネスにも通じるリーダー論(4/5 ページ)

» 2020年03月15日 07時00分 公開
[小和田哲男ITmedia]
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信長を「討たざるを得なかった」真相

 明智光秀はなぜ主君、織田信長を討ったのか。

 天正一〇(1582)年6月に起きた「本能寺の変」は、日本史における最大のミステリーの1つだ。

 信長から高く評価されていた光秀が、なぜ謀反を起こしたのか。

 私は「本能寺の変」の半年前、天正一〇年の年明けまで、光秀には謀反を起こす気はなかったと見ている。光秀は、信長からもらった茶器で「初釜」(正月の茶の集い)をしている。つまり、この時まで光秀は信長への敬意を持っていた可能性が高い。

 この「初釜」自体が謀反の意を隠蔽するためだったという「カモフラージュ説」もあるが、私はこれを光秀が信長をこの時点まであがめていた証拠だと思っている。

 その年の3月には、信長が武田勝頼を滅ぼした。長年信長を悩ませてきた武田家が、これで滅亡したことになる。そうなると信長は「俺の敵はいなくなった」と考え、彼の増長がはじまった。

 その象徴的なできごとが、勝頼の首実検であった。

 戦国時代、乱世の事とは言え、首実検においても最低限の死者への敬意は見せるのが当時の常識で、首を拝み、死者にねぎらいの言葉をかけるのが作法だった。

 だが、信長は悪口をいって勝頼の首を蹴飛ばしたと言う。光秀はこの光景をそばで見ており、きっと「常軌を逸した行動だ」と思ったはずである。

 もう1つの出来事は、武田攻めの帰りに起こった。

 信長が「せっかく甲斐まで来たんだから、富士山を見て帰りたい」と言ったとき、従軍していた太政大臣の近衛前久が「お供しましょう」と言った。

 すると信長は、「わごれなんどは木曽路を帰れ」と馬上から暴言を吐いたという。信長の家臣ならまだしも、太政大臣は今でいう総理大臣であり、きわめて位の高い相手である。それに対して、ふつうなら考えられない暴言を信長は吐いた。

 光秀はこの光景をそばで見ており、「これはおかしい」と思ったのではないか。

 そしてもう1つ、信長の息子の信忠が、信長に敵対する武将が甲斐の恵林寺に逃げ込んだため、恵林寺を焼き討ちした。

 当時のお寺はいわゆる「治外法権」であり、お寺は逃げてくる人間をかくまうことができた。

 ただ、織田勢は、武将を山門に追い上げて、僧侶150人ともども焼いてしまったのである。しかも恵林寺のトップは、天皇から「国師号」というお墨付きをもらった高僧だった。

 これ以上信長を増長させると、いずれ朝廷に弓を引きかねない、と光秀は感じ、謀反を決意したのではないか。

 これが私の唱える「信長非道阻止説」である。

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