NHK大河「麒麟がくる」明智光秀の意外な“危機管理能力”と本能寺の変の真相――時代考証担当の研究者が迫るビジネスにも通じるリーダー論(3/5 ページ)

» 2020年03月15日 07時00分 公開
[小和田哲男ITmedia]
※本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

信長からも「ベタ褒め」!?

 元亀二(1571)年、比叡山焼き討ちのあと、そのふもとに坂本城が築かれるが、光秀はそこの城主となり、それが、信長家臣団の中における「一国一城の主」第1号である。

 また、天正八(1580)年8月に、怠慢を理由に佐久間信盛・信栄父子が追放されたとき、その折檻(せっかん)状の中で、信盛・信栄父子の怠慢をなじりながら、それと比較対照するように、「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候」と記している。日向守とは光秀のことである。

 このように、光秀は軍事的にも丹波平定の功労者だったわけであるが、その丹波支配にも大きな業績を残していた。自らは亀山城を本城とし、領内のいくつかの支城に重臣を配置し、領域支配を行わせており、黒井城に斎藤利三、八上(やかみ)城に明智光忠、福知山城に明智秀満を入れている。

 中でも注目されるのが福知山城である。福知山城が築かれた場所は、由良川と土師(はぜ)川が合流する地点で、たびたび氾濫を起こしていた。城そのものは小高い丘の上に築かれたので、洪水が起きても大丈夫だが、それでは町が常に洪水の危険にさらされることになってしまう。

 そこで光秀は河川の付け替えによる洪水の危険を回避する治水事業に着手しているのである。具体的には、現在の福知山駅付近まで蛇行していたと推定される由良川を北に付け替え、堤防を築いている。しかも、ただ堤防を築いただけでなく、その前面に衝撃を和らげるための薮(やぶ)を設けたという。現在、その薮は「蛇ヶ端御薮(じゃがはなおやぶ)」とよばれ、実際、薮になっていて、水勢を弱める効果があると指摘されているのである。

本能寺の変は光秀流の「危機管理」か

 どうしても、光秀は謀反人としてとらえられてしまう傾向があるが、現在につながる福知山の発展の基礎を築いた武将として、地元では名君として慕われ、善政を敷いたことも無視できない。

 本能寺の変、光秀謀反の真因は何だったか、議論のあるところではあるが、信長の悪政を阻止するための光秀の危機管理だった可能性もあると、私は考えている。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.