2021年JC・JK流行語大賞を総括する 「第4次韓流ブーム」と「推し活」という2つのキーワード(3/4 ページ)

» 2021年12月26日 07時00分 公開
[ニッセイ基礎研究所]
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3――キーワード2「推し活」

 次に2つ目のキーワードである「推し活」について論じる。もともとオタクと呼ばれるコンテンツを嗜好する消費者達によって使われていた言葉であり、「好きな芸能人や声優など、人を応援すること」を意味する。

photo 表4 2021年JC・JK流行語大賞にランクインした推し活に関するキーワード

 表4は今回のランキング(表1)で入賞したなかから、推し活に関するキーワードを抽出したものである。全てのキーワードがキーワード1「韓国」と重複しているが、推し活という側面からそれぞれの流行語を検証する。

 まず「INI」は、前述の通り『PRODUCE 101 JAPAN SEASON2』というオーディション番組からデビューした訳だが、彼らは全国各地から集まった101人の練習生の中から視聴者投票によって選考された。トレーニングやミッションなどデビューまでの過程を放送することで、視聴者は自身の「推しメン」(推してるメンバー)を見つける。それぞれのミッションが終わるごとに101人から選考のふるいにかけられる為、視聴者は自身の推しメンが脱落しないように専用アプリから投票するわけである。

 昨今アイドルの性質が変化していると筆者は考える。アイドル全盛期であった70年代、80年代は、アイドル達はデビュー前にトレーニングやレッスンを積み、メディアに出る時にはタレントとしてほぼ完成されていたケースが多い。このように彼ら彼女たちが売れるためには事務所の大きさやマネジメント能力が必要であった。また、ステージから降りてもアイドルはいわば偶像として「ステージ裏の姿」を見せてはいけない存在であった。

 しかし、昨今のアイドルの多くは素人から発掘され、彼ら彼女たちが成長していく過程までも一つのコンテンツとしてファンに提供されることが多くなった。また、それに伴い、従来のアイドルは外見や歌唱力といった比較的可視化(客観視)された基準でファンを獲得していたが、昨今のアイドルはトレーニング過程やその中で見られる人間模様をファンに見せる(見られてしまう)ことで、従来の外見や歌唱力といった可視化された基準だけでなく、アイドル自身の人間性もファンからの評価基準となっている。

 この人間性や内面性は視覚化されないため、人間性の良しあしはファンの主観で判断されることになる。この可視化されないアイドルの良さを他人に推奨したいというファン心理から「推す」という言葉は浸透していったと筆者は考える。

 さて、AKB48の選抜総選挙のシステムや『PRODUCE 101 JAPAN SEASON2』の様に自身の推しが表舞台に立つために、ファンは投票という形で支えなくてはならない。従来のアイドルが事務所の力によって彼ら彼女たちのメディアでの出演範囲を広げていたこととは大きく異なり、昨今のアイドル誕生のシステムでは、ファンからの支持がなければ日の目を浴びる事すらできないのである。そのため、特に『PRODUCE 101 JAPAN SEASON2』においてファンは、自身の推しが選考に残り、彼らがテレビに出続けることを自分の事の様に一喜一憂していたようだ(※13)。

 かつて芸能人は憧れの象徴であったが、前述した通り参加者の大半は素人でもともとは視聴者と何ら変わらない若者であり、視聴者とは心理的距離が近いといえる。また、JC・JKを含むZ世代(1996〜2012生まれ)を中心に応援消費や親近感消費への関心が高まっており、社会や他者への貢献意識が高く、応援したいと感じるものに消費する傾向がある。ここで言う応援とはSNSで応援したい対象の情報を拡散したり、動画配信アプリで投げ銭(お金やお金に換金することができるアイテムなどを配信者へ送るシステム)をしたり、クラウドファンディング等も含まれるだろう。

 このような他人のために何かしたいという若者の共闘・応援の心理と自身の投票が参加者の夢を叶えるための助けになるというオーディション・システムの親和性から、『PRODUCE 101 JAPAN SEASON2』は大ヒットし、そこからデビューした「INI」が流行したという事は何ら不思議な話ではない。同様にモノ部門1位の「Girls Planet 999」もファンからの投票で選考のふるいにかけられるオーディション番組で、アプリ部門5位の「UNIVERSE」を用いた投票システムであった。「INI」「Girls Planet 999」「UNIVERSE」の流行は、若者の「推す」という消費者心理にマッチしたことが要因であると筆者は考える。

 モノ部門5位の「トレカデコ」そのものに関して言えば韓国で流行していたといえるのかもしれないが、もともと日本国内において推しのブロマイドや人形、アクリルスタンド等を持ち歩き写真に写り込ませる文化がオタクの間で成立しており、トレカデコもその派生にすぎない(図1)。

photo 図1 アクリルスタンドの使用例

 その中でもトレカが若者に選ばれる理由は低コストで楽しめるという点であると筆者は考える。これは実際に作成にかかるコストだけでなくオタ活(オタク活動)における心理的コストも影響している。トレカデコは通常100円均一でそろう材料で作成できるため、その手軽さが人気の理由である。併せて複数の対象に対してオタ活をする若者は、そのコンテンツごとに消費を分散しなくてはならないため、一つ一つのオタ活にかかる費用が低コストで抑えられるという点から見てもメリットがあるのである。

 筆者は本来「オタク」という語は「自身の感情に「正」にも「負」にも大きな影響を与えるほどの依存性を見い出した興味対象に対して時間やお金を自分のできる範囲の限界まで消費することにより、精神的充足を目指す」という消費性を指していると考える(※14)。

 しかし、「オタク」という言葉が大衆化したことで、コンテンツに対するお金や時間の消費の熱心度とは関係なく、自身の興味対象やブームに対して「自身は○○オタクである」と名乗ることが一般化した。従来は他の同じコンテンツを嗜好する消費者から知識量や熱心さを比較され「にわか」や「ライト」とネガティブな烙印を押されることもあったが、一般化したオタクという語彙において、特に若者層にとっては自身のアイデンティティーを形成するものとしての位置付けが強く、他人がどうあれ自分が好きならそれはオタクである、と考えているようだ(※15)。

 これが、かつてのオタクの文脈でオタクという語彙を理解する層との間で認識のずれが生じるのは致し方無いことである。従来のオタク(※16)は、コンテンツを極めるために支出や消費を1つまたは2つ等の少ないコンテンツや1つのジャンルに対して集中投資する傾向があったが、若者文脈におけるオタクでは、自身の興味対象は全てオタクであり、「自身は○○オタクである」と名乗ることが普通となっている。そのため、今は○○オタク、今は△△オタクといったように、オタクという性質がその場その場でつけ外しが可能なタグのような役割をもっているのである(※17)。

 「オタ活(オタク活動)」という語彙から見れば、総じて彼ら彼女たちの趣味・興味への投資は全て「オタ活」としての位置付けとなるため、趣味や興味が多くなるほどオタ活にかかる支出をそれぞれに分散しなくてはならない。また、従来のオタクは同じコンテンツを長く消費してきた傾向があるが、若者にとっては一時的ブームや興味に対してもオタクという語を用いるため、新しい興味対象を見い出したら乗り換え、新たにオタクを名乗るという消費行動を繰り返していく。

photo 図2 デコトレカとアクリルスタンド

 このような消費文化をもつ若者にとって、いつまで自分がそのコンテンツが好きか分からない(自信がない)のに一つのコンテンツに対して金額を集中して支出する事自体がリスクとなる。そのため、極力低コストかつ、自身の推しに対する熱心度を表現できるトレカデコは、気軽に推しを応援できるツールなのである。筆者自身、若者のオタクという言葉の使い方や解釈に最初は戸惑ったが、当初の「オタク」や「推し」といった言葉の意味自体に引っ張られるのではなく、彼ら彼女たちは単純に趣味や余暇活動のことをオタクやオタ活と言っていると解釈すれば、従来のオタクという語彙とは全く性質の違うものであると納得できるだろう。

(※13)ファンの中には投票をクラスメイトや知人に頼んでいた者もいたようだ

(※14)これは消費性オタクに限った話で、オタク文化を取り巻くネガティブなレッテルの側面が考慮されていなかったり、もともとの漫画やアニメといったコンテンツを消費していた1980年代のオタクと呼ばれていた人々の性質と異なることは承知している。

(※15)もちろん若者の中にも1つのコンテンツに特化して、嗜好し極めていく昔ながらのオタクもいることを留意したい。ここでの若者オタクとは一般化した意味でのオタクを肯定的に捉え、オタクという語を自身を補完するアイデンティティーや他人に自身を分かってもらうためのモノとして、他人を意識して用いている層を指している。

(※16)ここでいう従来のオタクとは、1980年代に存在した「おたく」というレッテルを貼られていた層や、1990年代初頭にメディアによって仕立てられた「危ない人々、根暗な人々といった」ステレオタイプの側面を指しているのではなく、あくまでも好きなコンテンツを熱心に消費する消費性オタクを指している。

(※17)オタクとはそもそも他人からのレッテルによって成立するため、自身の意思とは関係なく成立してしまう。言い換えれば自身でオタクという烙印もしくは評価を消すことはできないのである。人格そのものと言ってもいいかもしれない。また、好きなコンテンツに対して極端に消費してしまう消費性を「オタク」と呼ぶ場合もあり、このマインド自体は他人からの承認やレッテルがなくとも成立するが、そのオタクというマインドは当該コンテンツを好きでいる限り永続的に、そして連続性を持つモノである。仕事をしている時も、食事をしている時も、寝ている時もオタクはオタクなのである。そのため、そのコンテンツに対する消費行動一つ一つにつながりがあり、言い換えればオタク活動は、オタクを引退するまで終わりは来ないのである。しかし若者の間で使われている「オタ活」という語は、自身の興味対象を消費している瞬間(機会)に使われる言葉であり、その動作(購買、視聴、イベント参加)が終わると、その「オタ活」は終わりを迎える。オタクが人を表す総称から、興味対象を指す総称としての意味を含むようになったことで、オタクはマインドではなく、つけ外しが可能なタグのような役割も持ったのである。

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