ミートショックが仙台の「牛タン専門店」を直撃 一時は約3倍になった仕入れ値、どう乗り越える?長浜淳之介のトレンドアンテナ(3/4 ページ)

» 2022年08月24日 12時30分 公開
[長浜淳之介ITmedia]

なぜ牛タン焼が名物になったのか

 今や全国で親しまれている、牛タン焼。発祥には諸説あるものの、戦後間もない1948年(昭和23年)に、「味 太助」創業者の佐野啓四郎氏(故人)が、仙台市の中心部に専門店を開店したことが始まりだとする説が有力だ。

仙台の牛タン概要

 佐野氏が牛タンにたどり着く過程にも諸説がある。終戦を迎えて、仙台に雨後の竹の子のように次々にできた、焼鳥店の1つを開業していた佐野氏だったが、物資不足のため豚肉やホルモンなども提供していた。しかし、周囲の店と差別化が難しく、洋食店の知人に相談したところ、和食では当時扱ってなかった牛タンを出してみてはどうかと勧められた。牛タンのシチューを食べてみると確かにうまい。焼いてみると、歯ごたえがある。そして、あっさりした食感が和食に合う。こういった新しさが感じられた。

 そこで、切身の厚さ、包丁の入れ方、熟成期間、塩の振り方と分量、炭火の火力、焼き方など調理法に工夫を重ねて、現在のような牛タン焼に到達したという。

 宮城県や山形県の裕福な農家では牛が育てられていた。しかし、当時はまだ牛を肥育するほどの財力のある農家が少なく、材料の確保には苦労をした。1週間かけて、宮城県や山形県に買い出しに出かけても、10本も集まらない時もあったという。牛タン1本から、25枚ほどしか取れないので、1人前を3枚限定とした。今でも味 太助の「牛たん焼」は1人前3枚で提供される(単品で1600円、テールスープと麦めし付きの定食で2500円)。

味 太助の定食、1人前3枚(2500円)
味 太助

 当時は仙台市内に米軍キャンプが点在していたが、米国人はタンやテールは基本、食べない。日本人は内臓肉を食べるが、仙台のホルモンは豚が主流だった。つまり、米国人も日本人も食べなかった部位を活用して、全く新しいB級グルメを開発したのが、佐野氏だったのである。

 なぜ、牛タンに麦飯とテールスープが付くのかについても、諸説がある。麦飯については、終戦直後の米が不足していた頃の名残で、今は栄養面で見直されている。当初のスタイルを頑固に変えなかった。

 テールスープは、テールが洋食ではタンと共にシチューによく使う部位だったことがあったようだ。煮込むと肉が柔らかくほぐれ、良いだしも取れる。テールは誰も使っていなかったので、原材料費も安かった。

喜助
喜助のメニューの一部

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