松田氏が「吉野家」として店を始めたのは、ちょうどその頃だった。「庶民が好む『牛めし』をもっと美味しく提供できないか」──。松田氏は、白米にかける丼飯の形式はそのままに、上質なバラ肉を使って味の完成度を高めた。当時の牛丼には、現在の牛肉と玉ねぎに加え、たけのこや糸こんにゃく、焼き豆腐なども入っていたという。
上等な有田焼の丼ぶりに入れて提供したことから「牛丼」と名付けられたそのメニューは、魚河岸で働く男たちの間で瞬く間に評判に。牛丼に赤い紅生姜を添えた粋な色合いも“江戸っ子”たちに好評だった。仕事の合間にさっと丼をかっこみ、滋味あふれる味に舌鼓を打ち、満足げに帰っていく男たち。いつしか牛丼は魚河岸労働者にとって不可欠な存在となった。
その後、1923年の関東大震災を機に、魚河岸が日本橋から築地に市場移転。吉野家も店舗が焼失したことから、築地に移転し、3年後の26年に営業を再開した。35年には中央卸売市場開設に合わせて、市場内に店舗を開店。築地の店舗は太平洋戦争中の東京大空襲で再び焼失の被害を受けたものの、2018年10月の築地市場閉場まで営業を続けた。
吉野家は近年、唐揚げなど牛肉以外のメニューも強化するなど事業に多少の変化が生じている。だが、同社を日本を代表する外食チェーンに押し上げた原動力は紛れもなく牛丼だ。同社は祖業である牛丼について公式Webサイトでこのように言及している。
「創業からこれまで毎年のように牛丼のブラッシュアップを重ねている。本部では、原材料すべての品質や安全性を確保し、製造部はベストな食材の状態などを追求し続けている。たれの配合なども研究の手を怠らない」
2024年で創業125年を迎える同社のアイデンティティともいえる牛丼。125年目の味に注目が集まりそうだ。
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