いまから50年近く前の「国鉄監修 交通公社の時刻表1975年8月号」(現JTBパブリッシング刊)の日田彦山線のページを開いてみよう。日田を出る上りの急行が1日に5本も出ている。都市間輸送の性格を持った路線でもあったことを物語っている。行く先も多彩だ。門司港、博多、直方と九州内のほか、「あきよし」は関門トンネルを抜けて山陽、美祢、山陰線経由で島根県の浜田に向かう。走行距離は300キロ超。当時の国鉄は1本の列車に複数の役割を持たせており、「あきよし」は陰陽連絡、大分中西部と北九州を結ぶという2つの顔を持っていたといえる。
平成に入ると大分自動車道など道路網の整備が進み、優等列車は格下げされ、普通列車のみが走るローカル線となった。いまの日田彦山線の役割は地域の足になることと、赤字ローカル線のBRT転換のモデルケースになることだ。(鮫島敬三)
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