赤城乳業の前身である広瀬屋商店の創業は、1931年までさかのぼる。創業の地である深谷は、中山道の深谷宿として発展した街で、昔から信州との交易が盛んだった。渋沢栄一も若い頃、深谷の特産だった染料となる藍玉の行商で信州・上州を売り歩き、財を成した。広瀬屋は軽井沢の製氷工場から上質な天然氷を仕入れて、JR高崎線・深谷駅前で販売していた。その後、1960年に合資会社赤城乳業と社名を変更し、翌年に株式会社赤城乳業としての歩みを始めた。
1964年にはかき氷カップの「赤城しぐれ」を発売し、ヒット。店先で氷を削ってもらって食べるのが主流であるかき氷を、もっと手軽に食べられるように、カップにかき氷を詰めた、当時としては画期的な商品だった。
狙い通りにヒットした赤城しぐれだったが、1970年代に起こったオイルショックの影響でコスト高が襲い、1個30円から50円に値上げを実施。競合他社は値上げを踏みとどまったため、値上げした赤城しぐれの売り上げが激減し、経営は危機的状況に陥った。
会社のピンチを打開すべく、新商品の開発がスタートした。「子どもが遊びながら片手で食べられる、かき氷を作れないか」といった考えから、新タイプのアイスキャンディー・ガリガリ君の着想に至ったという。
当初のガリガリ君は、かき氷を固めたバーの商品として販売していた。しかし、店頭に並ぶまでに、パッケージの袋の中で、かき氷がバラバラになってしまう問題があった。そこで、その問題を解決するアイデアとして、外側の薄いアイスキャンディーで、内側にあるかき氷を包む、二重構造となった商品にバージョンアップ。このような技術革新により、1981年に現在のガリガリ君の姿になったとのことだ。
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