ここまで、人的資本経営における指標の種類について整理した。それぞれの指標について設計する際には、次の3つのトレンドを押さえておきたい。
人的資本可視化指針では、人的資本の開示において意識すべき観点として「価値向上」の観点と「リスクマネジメント」の観点を挙げるとともに、開示事項の例として19項目を挙げている。
「リーダーシップ」「育成」「スキル/経験」「エンゲージメント」などは、価値向上の観点が強い項目であり、「賃金の公正性」「福利厚生」「組合との関係」「コンプライアンス/倫理」などは、リスクマネジメントの観点が強い項目だ。
内閣府は19項目全ての開示を要請するのではなく、開示ニーズに対して選択・開示をするように要請している。これまでは、どちらかといえばリスクマネジメントに関する項目の開示が中心だったが、今後は価値向上に関する項目の開示が求められるようになるはずだ。
人的資本の情報開示に関する認証資格「ISO 30414」を取得する企業が増えている(2024年8月時点で13社)。ISO 30414の認証取得企業が発行している人的資本レポートなどを見ると、「人材力」「強い個」など個人の能力開発に力を入れている企業が多いことがうかがえる。
HRテック界の第一人者として知られる人事コンサルタントのジョシュ・バーシン氏は、「基礎能力重視の時代から専門能力重視の時代へ移っていくだろう」と予言している。さらに「専門能力は数カ月ごとに変化するものであり、あらゆるデータはスキルクラウドへ統合されるだろう」と述べている。こうしたことから、今後は「個人のスキル」に関する指標開示に注目が集まると考えられる。
人的資本可視化指針では「ビジネスモデルや競争優位性が多様化する中で、比較可能な情報のみで企業の経営戦略や人材戦略を表現することはできない」、それゆえに「独自の開示事項を検討する必要がある」と示されている。
また、経済産業省の非財務情報の開示指針研究会でも「比較可能な美しいデータを求めているわけではない」「定量化できるものだけ開示しても本末転倒だ」「企業の考えが分かり、対話の糸口となる情報を開示してほしい」といった投資家の意見を示している。
つまり、人的資本可視化指針で示されている19項目や、ISO30414で規定されている11項目58指標の開示にとらわれすぎる必要はないということだ。今後は、いかに自社らしい独自性のある項目を設定・開示できるかが重要になってくるだろう。
各種指標の中でも、人的資本経営において特に効果を発揮する指標として位置付けられることが多いのが「エンゲージメント」だ。この潮流は国内外を問わない。実際に有価証券報告書では、1000社を超える企業がエンゲージメントに関する情報を開示している。
エンゲージメントがここまで注目されているのは、退職率や営業利益率、ROEやPBRなどさまざまな指標との相関関係が明らかになっているからだ。エンゲージメントが企業を取り巻く3つの市場(労働市場・商品市場・資本市場)に与える影響を見ていこう。
エンゲージメントの向上は、退職率の低下に寄与することが明らかになっている。特筆すべきは、業務遂行を担うメンバー層だけでなく、その管理監督を担うミドル層の退職率低下にも寄与することだ。
また、従業員の主観的な「キャリア充足度」が高い組織ほど、エンゲージメントが高いという正の相関が明らかになっている。加えて、主観的なキャリア充足度が高いマネジャーほど、マネジメントサーベイのスコアが高いことが分かっている。
つまり、メンバーやマネジャーへのキャリア開発を支援することでエンゲージメント向上が期待できるだけでなく、マネジャーのパフォーマンス向上にもつながる可能性があるということだ。
エンゲージメントの向上は「営業利益率」や「労働生産性」の向上にも寄与する。中でも営業利益率に関しては、「翌四半期の営業利益率」との相関があり、比較的短期間で成果に寄与すると明らかになっている。
エンゲージメントと「ROE」「ROIC」「PBR」には正の相関が見られ、エンゲージメントが高い企業ほどROE、ROIC、PBRが高いことが示唆されている。
同じ資本を投下したのであれば、エンゲージメントが高い企業ほど、その資本をより効果的に活用し収益につなげられる可能性が高いといえる。また、人的資本投資を推進していることが投資家に伝わり、将来的な収益性に対する期待を醸成できていることが、エンゲージメントとPBRに正の相関が見られる要因と考えられる。
人的資本情報の開示義務化により、人的資本経営における「指標開示」が先行したが、これからは「実践」、そして「成果接続」が求められるようになるはずだ。
人的資本情報を開示したことで小休止するのではなく、経営の指針を明示し、アウトカムから設計した上で、施策を走らせ、財務指標などの成果につなげていくことが重要だ。次回は、人的資本経営を推進し、トレンドを押さえた開示ができている企業の事例を紹介したい。
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人的資本開示の“失敗あるある” 投資家に見向きもされない情報とはCopyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
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