1997年に「priceless」(プライスレス)という概念を打ち出したMastercard(マスターカード)。カード会員に向け体験型価値を訴求することによって、消費者のクレジットカードへの見方を変えるきっかけとなった。そのマスターカードが今、新たなマーケティング理論を実践している。
その理論は「クオンタム(量子)マーケティング」というもので、物理学の進化から着想を得たものだ。提唱者は同社で2013年からグローバルCMOを務めるラジャ・ラジャマンナー氏だ。彼が2022年12月に出版した『クオンタムマーケティング』は、ブランド体験を視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感の全てで顧客に届けるアプローチで話題となった。
なぜ、今マーケティングに「量子」の発想が求められるのか。提唱者のラジャ・ラジャマナー氏に聞いた。
ラジャ・ラジャマナー Mastercardマーケティング&コミュニケーション最高責任者兼ヘルスケア部門社長。インド経営大学院で経営学修士号を、オスマニア大学で化学工学の技術学士号を取得。アジアン・ペインツ、ユニリーバで営業および製品管理を担当した後、シティグループでシティ・グローバル・カードのエグゼクティブ・バイスプレジデント兼CMO(最高マーケティング責任者)、ダイナースクラブ北米会長兼CEO(最高経営責任者)、シティ中東湾岸マーケットのマーケティング&セールス・ディレクターなどを経て現職。『フォーブス』誌の「世界で最も影響力のあるCMO」の1人に2021年に選出された。世界広告主連盟会長、PPLコーポレーションの取締役会メンバー――クオンタムマーケティングとはどういったマーケティング手法なのでしょうか。
まず物理学の例を用いて説明します。物理学はあらゆる物事がどんな仕組みで成り立ち、どのように機能しているのかを解き明かす科学です。例えば電気や重力、物体の運動にはニュートンの法則など、確立された理論が存在します。
しかしテクノロジーが飛躍的に進化し、人類が地球の外、宇宙に目を向けるようになると、それまでの物理の考え方が当てはまらない現象が現れ、従来の理論が通用しなくなりました。そこで登場したのが量子という新たな概念であり、マックス・プランクが量子物理学を提唱しました。
これは、それまでの理論や枠組みを根本から見直すことを求めるもので、全く新しい視点で世界を捉える必要が生じたものです。この量子物理学を基盤に、現代のテクノロジーや通信、さらには原子力といったさまざまな分野が発展してきました。
この物理学の進化をもとに、私はマーケティングにも同様のパラダイムシフトが起きていると考えました。物理学が量子物理学へと進化したように、マーケティングの分野においても進化が必要だと私は考えました。
従来のマーケティングは1960年代や70年代に形作られたものであり、その当時はインターネットやスマートフォン、SNSやAIといった技術が存在していませんでした。そのため、現代ではあらゆるものの見方を変え、マーケティングの考え方自体を根本から見直す必要があると感じたのです。
――クオンタムマーケティングは、従来のマーケティング手法と、どう異なるのでしょうか。
これまでマーケティングは、プロダクト・マーケティング、エモーショナル・マーケティング、データドリブン・マーケティング、デジタル&ソーシャル・マーケティングといった段階を経てきました。そして今、私たちはクオンタムマーケティングと呼ぶべき第5の時代に突入しています。この新たな時代は、テクノロジーの進化によって消費者の生活様式が劇的に変化し、従来のマーケティングの常識や手法が通用しなくなっているのです。
クオンタムマーケティングとは、アート、テクノロジー、そして科学の力を融合させ、消費者の頭と心の両方に深く入り込むアプローチです。私たちは「消費者が、なぜ、そのように考え、感じ、行動するのか」そして「どうすれば消費者の好みに影響を与えられるのか」をより深く理解しなければなりません。
従来のマーケティングはある程度、共通する特性を持った集団に対して最適な施策を考えてきました。AIなどの新しいテクノロジーを活用することで、個々の消費者に合わせたリアルタイムかつパーソナライズした提案が可能になります。
このように、クオンタムマーケティングの時代には、マーケターは偏見を持たず、広い心で新しいテクノロジーを受け入れ、積極的に学び続ける姿勢が必要です。AI、ブロックチェーン、5Gといった革新的な技術を理解し、活用することによって、これまでにない洞察を得て、消費者一人一人に最適な価値を提供できるのです。
私はこの考えをまとめた著書『クオンタムマーケティング』を2022年12月に出版しました。この本はウォールストリートジャーナルでベストセラーに選ばれ、13の言語に翻訳され世界中で出版しています。また、6つの国際的なアワードも受賞し、現在では世界中の300以上の大学が教材として採用しています。マスターカードでもこのクオンタムマーケティングの実践を進めています。
――クオンタムマーケティングの具体的な実践例を教えて下さい。
人間には五感、すなわち視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚がありますが、私たちはこれら全ての感覚を通じて消費者の心に訴えかける取り組みを進めています。このアプローチを「マルチセンサリーマーケティング」と呼んでいます。つまり、複数の感覚に同時に働きかけることで、ブランド体験をより豊かで印象的なものにしようとしているのです。
例えばマスターカードでは、ブランドロゴを視覚的に提供するだけでなく、独自のサウンドロゴも開発しました。テレビなどでロゴとともにこの音を聞くことで、視覚と聴覚の両方からブランドを体験できます。このサウンドは高い評価を受けています。
さらに味覚の分野では、フランス・パリのマカロン発祥店である「ラデュレ」とコラボし、マスターカードを象徴する赤と黄色のマカロンを開発しました。これにより、味覚でもブランドを感じられるようにしています。嗅覚についても、赤と黄色をテーマにした独自の芳香剤を作り上げ、ブランドの世界観を香りでも表現しています。
このように、私たちは人間のあらゆる感覚に訴えかけることで、消費者の心や感情に深く響くブランド体験を提供しています。これが私の考えるマルチセンサリーマーケティングであり、クオンタムマーケティングの核心です。
――ラジャCMOはフォーブスの「世界で最も影響力のあるCMO」に選ばれています。ご自身でその理由をどのように分析していますか。
フォーブスからはこれまで6回にわたって表彰を受けました。「世界で最も影響力のあるCMO」という評価をいただき、さらにはフォーブスの(長年にわたる継続的な成功や影響力を評価して選ぶ)「ホール・オブ・フェイム」への殿堂入りも果たすことができました。それ以外にも、コロンビア大学やアメリカ広告協会などからも殿堂入りの名誉を受けています。
私がこうした評価を受けた最大の理由は、クオンタムマーケティングという新たな領域を確立したことにあると考えています。これは従来のマーケティングの枠組みを超え、AIやブロックチェーンなど最先端のテクノロジーを活用しながら、消費者の体験価値を根本から変革するアプローチです。私はこのクオンタムマーケティングを実際に実践し、成果を出してきたことで、人々のマーケティングに対する考え方を大きく変えられたと思っています。
具体的な成果として、当社ブランドの世界的評価があります。私が就任した当初、マスターカードのブランド価値は世界で87位でしたが、現在ではKantar社の「BrandZ Most Valuable Global Brands」の2024年のランキングで、世界で11番目に愛されるブランドに成長しています。
これにより、マスターカードは世界で最も愛されるブランドの一つになったと自負しています。当社ではマーケティングがビジネスを推進する原動力となっており、クオンタムマーケティングという最先端の手法を実践できていることが、こうした評価につながったと考えています。
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