自動車メーカーはかつて、テレビで多くの人が共感するCMを次々と提供し、社会に大きな影響を与えた。自動車のテレビCMは時代を映す鏡ともいえる。だが今は、業界のネガティブなニュースがテレビを賑わせている。ここでは一般消費者の視点から、話題となった自動車メーカーのテレビCMとその背景にある社会動向を振り返る。
古くは1958年、冠番組内でコメディアンの大村昆が車名を連呼するダイハツ・ミゼットの生CM(生放送形式のCM)がある。通常の形では1962年にトヨペット・コロナのCMが流れた。まだ白黒映像の時代で、砂地を走行してドラム缶に激突する内容だ。
当時は車の性能を強調するCMが多かった。トヨタ・カローラのCMはウィリアム・テルをもじり、放たれた矢よりも車が速く走り、りんごに刺さる前に矢をつかむといった荒唐無稽な内容だった。
1960年代は高度経済成長により世帯収入が増加し、国は自家用車の普及を掲げた。当時の日本を代表する大衆車が次々に登場し、CMも多く放映された。1964年のトヨタ・パブリカのCMでは、車のある家族の風景がコミカルに描かれ、自家用車を持つメリットが謳(うた)われている。
家族が車でお出かけする光景は、今では当たり前だが、当時はあこがれの家族像だった。3C(カラーテレビ、クーラー、カー)がいわれ、自動車は消費の象徴となった。
1960年代後半から自動車の保有台数は上昇に転じる。車種も多様化し、スポーツカーも開発された。この頃のCMは、「おそらく自分では走らないだろう海外の山や海岸線の道を疾走する映像」が多い。走りのかっこよさをアピールしたものだ。
自動車メーカーはさまざまな番組をスポンサードし、ゴールデンタイムに多くのCMを流した。夕食時には家族そろってテレビを見る時代で、子どもも含め車に乗らない層にもイメージが刷り込まれた。
1972年、自動車テレビCMの金字塔といえる作品が登場した。
日産・スカイライン(ケンメリ)の「ケンとメリーのスカイライン」である。若い美男美女のカップルが四季折々の自然のなかでたわむれるロマンチックな映像だ。抜け感のあるBGM「いつだって〜、どこにだって〜」と相まって、幅広い層から絶大な人気を集めた。CMに登場した大きなポプラの木は「ケンとメリーの木」と呼ばれ、北海道美瑛町の観光スポットとなっている。
ドライブは若者の定番デートになり、男性の車が交際の判断基準のひとつになる女性も現れた。幅広い層が自動車に興味を持っていたといえる。当時、日本車を代表する名車が次々に登場し、テレビCMも熱を帯びていた。1979年、トヨタ・セリカ(2代目)は「名ばかりのGTは道を開ける」とCMで挑発した。それに対し、数々の賞を受賞したスカイライン(ジャパン)は「今、スカイラインを追うものは誰か」と返している。
経済成長を続ける1980年代は、話題のCMが相次いだ。
異彩を放ったのが1981年のホンダ・シティだ。マッドネスの「ホンダ ホンダ ホンダ ホンダ」と連呼するBGMと、むかでウォークの流行が印象的だった。また、1985年のいすゞ・ジェミニ「街の遊撃手」ではパリの街並みをジェミニ2台がダンスのように走る映像が驚きを呼んだ。CGや合成ではなく、007シリーズを担当したフランスのスタントチームの技術によるものである。
この頃、多くの人が自動車メーカーのテレビCMに強い共感と関心を示した。単なる大企業というだけでなく、自動車産業に携わりたいという熱意ある若者も多かった。1988年の日産・セフィーロでは井上陽水がウィンドウ越しに「みなさんお元気ですか?」と語りかけるCMが話題になった。糸井重里の「くうねるあそぶ」のコピーも時代の空気にマッチしている。日本は経済大国に躍進し、国民が豊かさを享受していた時代であった。
1980年代後半から1990年代初頭のバブル期には、各社がハリウッドスターを起用したCMを増やした。ホンダ・インテグラのマイケル・J・フォックス、日野・レンジャーのダイアン・レイン、トヨタ・セリカのエディ・マーフィ、スバル・レガシィのブルース・ウィリス、ホンダ・レジェンドのハリソン・フォードと豪華な顔ぶれである。この時期は日本経済とともに、自動車テレビCMの絶頂期ともいえるだろう。
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