東京都港区の臨海部にあるお台場は、現在では観光名所として知られるようになった。週末になると多くの人が訪れ、海浜公園には釣りをする人や観光客の姿が絶えない。
しかし、この街はもともと順調に発展したわけではない。開発の途中で方向性を失い、計画の失敗と逆風を受けながらも、独自の形で変化してきた都市空間である。
お台場への交通手段は多様である。
鉄道では、東京臨海高速鉄道りんかい線と新交通システムのゆりかもめが利用できる。バス路線や水上バスも都心とお台場を結んでいる。りんかい線は埼京線と直通運転を行い、新宿や池袋方面からのアクセスを確保している。ゆりかもめは新橋と豊洲を結び、観光的なルートを通って湾岸地域を横断する。
さらに、レインボーブリッジを経由する自動車の利用も多く、周辺には大規模な駐車場が整っている。これらのように複数の交通手段が重なり合うことが、お台場の交通の大きな特徴である。
このお台場が東京臨海副都心として本格的に開発されることになったのは、1989(平成元)年のことだった。当時はバブル経済の最盛期であり、東京湾岸の埋立地を利用して新たなウォーターフロント型の都心を作る国家プロジェクトが始まった。
1993年にはレインボーブリッジが開通し、臨海部へのアクセスが改善された。そして、1996年に開催が予定されていた「世界都市博覧会」が開発促進のための重要な行事と考えられていた。しかし、
――が強まったことにより、博覧会は中止となった。その時点ですでにオフィスビルや商業施設の建設は始まっており、途中で中止することは困難だった。そのため、将来の見通しが立たないまま施設の開業が続けられることになった。
「このままではお台場はゴーストタウンになる」といった不安の声が、当時の報道でたびたび取り上げられていた。
しかし、予想は大きく外れた。
1996(平成8)年に入ると、3月にはホテル日航東京(現・ヒルトン東京お台場)、7月には東京ジョイポリスとデックス東京ビーチが相次いで開業した。同年3月には、はとバスが東京臨海副都心を巡る観光コースの運行を開始している。
世界都市博覧会の中止により、埋立地は空洞化するという見方が支配的だった。しかし、実際には観光客が殺到した。
東京ジョイポリスは開業からわずか20日で入場者10万人を突破。デックス東京ビーチは開業1カ月で120万人を集めた。ホテル日航東京の1996年8月の稼働率は83%に達した(『アクロス』1996年10月号)。
人が集まった要因は、「雑多な雰囲気」にあるとされる。デックス東京ビーチのような洗練された商業施設は存在したものの、周囲に残る空き地や未整備の景観が、計画都市にはない“隙間”を生み出していた。
現地では屋台の出店も目立ち、焼きそばやかき氷が並ぶ路上の風景は、まるで縁日のようだった。お台場海浜公園では釣り客や日焼けを楽しむ人が集まり、空気は完全に海水浴場のそれに近かった。水上バスの呼び込みも盛んであった。
本来はウォーターフロントの先進的な都心拠点を目指していたが、結果として生まれたのは、土着性を含んだ“ゆるい”観光地であった。
1997(平成9)年、フジテレビが新宿区河田町からお台場に本社を移転した。この移転により、フジテレビはお台場の象徴的な存在となった。移転そのものを番組の企画に取り込むという演出が話題を呼び、メディアの注目が一気に集まった。こうした発信によって、お台場は「ゆるい非日常」の空間としての印象をさらに強めた。
一方で、こうした娯楽的な印象とは対照的に、お台場では住宅地としての側面も広がっていた。
2003年当時、台場1丁目の人口は4502人だった。一方、台場2丁目には居住者はいなかった。しかし2006年、高層タワーマンション「ザ・タワーズ台場」が完成。同年9月には、2丁目の人口が606人まで増加した。2025年7月時点では、台場1丁目の人口は4554人、2丁目は978人となっている。
同様の傾向は、フジテレビ移転前年の1996年にも見られた。1996年3月の時点で、お台場には住宅・都市整備公団(現在の都市再生機構)が運営する賃貸住宅が10棟、計1302戸あった。交通の便に乏しく、商業施設や医療機関も少ない時期であったが、入居希望者は多かった。都市再生機構が運営する「シーリアお台場三番街」では、平均入居倍率が26.8倍に達していた。最上階の部屋の倍率は615倍に上った。
しかし、1996年ごろのお台場は、東京都心にありながら生活に必要な施設がほとんどなかった。そのため、「絶海の孤島」とも呼ばれていた。スーパーマーケットはマルエツだけであった。書店はなく、病院も歯科医院を除けばほとんど存在しなかった。宅配ピザのサービスも利用できなかった。住民は、渋谷や新宿へ行くことを「街に行く」といっていたほどだった。
その後、街の整備が進み、生活の環境は大きく変わった。現在では、マルエツに加え、オーケーストア、まいばすけっと、イオンスタイル有明ガーデン(隣接する有明エリア)などがそろっている。安い店と高級な店がともに存在し、買い物の選択肢が広がった。
住む人が増えることで、観光やイベントに頼る都市とは異なる安定した力が街に生まれた。お台場は、観光地としてのにぎわいと、暮らしの場としての定着が両立した、めずらしい都市となっている。
本来は、都市博覧会を中心に新しい都市づくりが進められる予定だった。しかし、計画が中止されたことで、街づくりの方針や手続きが途中で止まった。そのため、開発されなかった場所に、決められた枠にとらわれない動きが入る隙間ができた。行政の計画にしばられなかったことが、土地の使い方にさまざまな可能性を生んだ。そこでは、もともとの計画にない人の集まりや住みつきが起きた。
土地の使い方をきちんと決めることが後まわしになった結果、民間の会社や住民が自由に試す動きが許された。そのことによって、お台場は行政の計画にそった都市とはちがう流れで、少しずつ変化していった。計画の失敗は、成長の邪魔になるどころか、新しい道を切り開くきっかけになった。
都市の価値は、計画通りに進むことではなく、外の状況が変わったときにうまく対応できる力や、人びとの使い方によって意味が変わっていく広がりで決まる。お台場は、決められた制度の外から生まれた暮らしの積み重ねによって、あとから街としての正当な形を手に入れた特別な例である。
この場所を「失敗から生まれた場所」とだけ見るのは早すぎる。むしろ、計画が途中で止まったことで、中心がひとつでない都市のあり方や、まっすぐでない成長の形を見せたという意味で、これまでの都市開発に新しい問いを投げかけている。
お台場は、都市づくりが進まなくなったときに、そこから何が生まれるかをはっきりと示す例となった。それは、あらかじめ決められた都市ではなく、人びとのかかわりの中で意味がつくられていった都市である。
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