自制なきオンデマンドとテスラの事故:池田直渡「週刊モータージャーナル」(3/4 ページ)
テスラの自動運転による死亡事故が大きな物議を醸している。これを機に、今一度、テスラという会社のクルマ作りについて考えてみたい。
人が運転するもののあり方
今回の事故は、その本質においてアンチロックブレーキ(ABS)やスタビリティコントロール(ESC)の付いたクルマが、その機能を持ってしても事故を回避できなかったということと何ら変わらない。それらのセーフティデバイスは、魔法ではない。ベターな結果を求めるためのものであって、常時ベストを保証するものではないのだ。
それをメディアと一緒になって顧客の見たい夢のように誤解させた道義的な罪はやはりテスラにあると思う。メディアも企業もユーザーにおもねり過ぎなのだ。どちらも専門家としての矜持を持って、そんな夢ばかりでないことをちゃんと伝えていく必要がある。
例えば、国交省のレベル2「ドライバーは安全運行の責任を持つが、操舵・制動・加速全ての運転支援を行う」は、もうずばり現在の最新型アダプティブ・オート・クルーズ(ACC)を指していると言って良い。これについての取り組みを見てみると、技術的可能性だけではなく、それによって人がどう行動するかまでを綿密に考えているメーカーも少なくない。
ボルボはACCでのクルマの振る舞いを洗練させている。ACCでの加速や減速は普通のドライバーよりはるかにジェントルである。それは主に高速道路において、ドライバーとクルマのシステムによって安全監視を二重化し、安全性を向上させることが目的だからだ。原則としてボルボはこのACCを一般道で使用することは認めていない。
ドライバーが注意力散漫になったり、居眠りしたりということは現実の高速道路上で起きており、それが事故の原因となるケースは当然多い。だからそうしたヒューマンエラーを排除することがACCの目的なのだ。ACCの加減速マナーが乱暴で不快感を招き、その結果、ドライバーがACCを使わなければ、それによって防止できたはずの事故が防げなくなる。また同時にドライバーからステアリングへの操作が一定時間以上途切れると警告音を鳴らしてドライバーの主体的運転を喚起する。そこにはACCを快適なものにして必ず使われるようにすると同時に、ACCだけに依存した運転が行われないようにするロジックが組み込まれている。
大事なのは安全監視の二重化だ。どちらか一方ではダメなのだ。その理念を伝えつつ、普及を図らねばならないはずのACCを、さも安楽な自動運転のバラ色の未来であるかのように情報発信し続けたことは、テスラとメディアの共犯による明らかなミスリードである。
今回、テスラが発表した声明を読む限り、テスラにもステアリング操作が途切れると警告する機能は付いていた。そういう意味で言えば、ハードウェアの成り立ちそのものには大きな差はないはずである。
差があるとすれば、ドライバーが運転しているものが何なのかを自覚させる部分だったように思う。「夢の自動運転のクルマを手に入れよう」――そういうミスリードがあれば、ドライバーにとって、ステアリングから手を離しているときに鳴る警告音はうるさい風紀委員のように感じられてしまう。
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