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井上尚弥の強さに迫った書籍『怪物に出会った日』 異例の“発売前重版”の舞台裏

「怪物」の異名を持つ井上尚弥選手と闘い、敗れたボクサーから話を聞くことで、井上選手の強さに迫ったスポーツノンフィクション『怪物に出会った日〜井上尚弥と闘うということ』。発売前に異例の重版が決まり、発売1カ月で4刷3万3000部とヒットを飛ばしている。その背景には、約1年かけて取り組んだSNS戦略があった。

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 プロボクシングWBC&WBO世界スーパーバンタム級王者の井上尚弥選手が、4団体王座統一に挑む試合が迫ってきた。WBA&IBF世界同級王者マーロン・タパレス選手と、12月26日に東京・有明アリーナで対戦。井上選手が勝てば、史上2人目となる2階級での4団体統一の偉業を達成する。


「NTTドコモ Presents WBA・WBC・IBF・WBO 世界スーパー・バンタム級王座統一戦 井上尚弥vsマーロン・タパレス -streaming on Lemino-」が12月26日に東京・有明アリーナで開催(プレスリリースより)

 試合への注目が高まるとともに、話題になっている書籍がある。「怪物」の異名を持つ井上選手と闘い、死闘の末に敗れたボクサーから話を聞くことで、井上選手の強さに迫ったスポーツノンフィクション『怪物に出会った日〜井上尚弥と闘うということ』(森合正範著・講談社)だ。10月26日の発売前に重版が決まり、発売1カ月で4刷3万3000部とヒットを飛ばしている。ノンフィクションが発売前重版になることは異例だ。

 その背景には、本書が持っている熱量の高さとともに、約1年かけて取り組んだSNS戦略がある。著者の森合氏と2人の編集者に、ヒットの裏側を聞いた。


森合正範(もりあい・まさのり)東京新聞運動部記者。1972年神奈川県横浜市生まれ。大学時代に東京・後楽園ホールでアルバイトをし、ボクシングをはじめとした格闘技を間近で見る。卒業後、スポーツ新聞社を経て、2000年に中日新聞社入社。「東京中日スポーツ」でボクシングとロンドン五輪、「中日スポーツ」で中日ドラゴンズ、「東京新聞」でリオデジャネイロ五輪や東京五輪を担当。雑誌やインターネットサイトへの寄稿も多く、「週刊プレイボーイ」誌上では試合前に井上尚弥選手へのインタビューを行っている。著書に『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』(東京新聞)。

異例のヒット 背景に「1年がかりのSNS戦略」

 同書は、井上選手に敗れた選手たちを取材することによって、彼らのドラマを描きながら井上選手の強さに迫るスポーツノンフィクションだ。森合氏は記者としてボクシングを約2年間担当。その後も本人いわく「趣味」でボクシングの取材を続けてきた。

 本書につながる執筆を始めたのは、森合氏が抱える悩みが発端だった。2018年10月7日に行われた、バンタム級最強を決めるトーナメント「ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ(WBSS)」1回戦。WBA世界バンタム級王者の井上選手と、元世界王者で挑戦者のファンカルロス・パヤノ選手とのタイトルマッチでもあったこの試合で、井上選手は70秒でパヤノ選手をKOした。ところが、森合氏はこの試合の原稿が書けなかったという。

 「今見た井上選手の強さを、原稿で全く表現できませんでした。70秒でKOして圧勝したことしか書いていなくて、何がすごくて、何が強いのかが分からない。読んだ人は相手が弱かったのかなと思うでしょう。それがやるせなくて、情けなかった。すごく嫌な気持ちで会場から帰ったのを覚えています。

 井上選手にはそれまでもインタビューをしていました。対応は丁寧で優しいし、聞いたことは全部答えてくれます。ただ当時、井上選手は感覚という言葉を使うことが多く、感覚と表現していることを私は言語化できませんでした。井上選手の強さをひも解くことができなかったのです」(森合氏)

 悩む森合氏にアドバイスをしたのは、講談社のWebメディア「現代ビジネス」の編集長を当時務めていた阪上氏だった。

 「パヤノ選手との試合後に森合さんが悩んでいたので、(井上選手に)敗れた相手に話を聞きにいったらどうですか、と軽い気持ちで言いました。ほとんどの記者が、敗者には取材していないでしょうから。それ以前から森合さんには、井上選手という怪物を避けて通るわけにはいかないんじゃないですか、と話していましたね」(阪上氏)

 阪上氏からのアドバイスを、森合氏はすんなり受け入れたわけではなかった。

 「敗れた選手たちには興味がありましたが、阪上さんから言われたときは『無理だ』と思いました。井上選手の強さを探りたいのに、負けた人に相手のどこが強かったのかを聞くのは、すごく失礼じゃないですか。負けた選手を傷つけていいのかと、この取材方法でいいのかという葛藤はずっとありました。

 でも、取材を始めると、佐野友樹選手は右目が網膜剥離に近い状態で闘っていたことを、包み隠さず話してくれました。この話は自分が書かなければ誰も書かないだろうし、世に出ないかもしれない。自分がやらなければならないと思うようになりました」(森合氏)

 ここから「現代ビジネス」で、『怪物に敗れた男たち』の題名で連載を始める。佐野友樹選手、河野公平選手、ワルリト・パレナス選手に取材して原稿を発表すると、大きな反響があった。そして書籍化が決まると、森合氏は会社の休みを取り、メキシコにアドリアン・エルナンデス選手、ダビド・カルモナ選手を、アルゼンチンにオマール・ナルバエス選手を訪ねた。取材は自費だった。

 「休みをまとめて12日間取って行きました。自費で行ったのは、正直なところ取材ができるのかどうかも分からないので、背負いたくなかったからです。ただ、コーディーネーターの分も合わせて2人分の旅費と取材費が必要で、100万円以上のお金がかかるので悩みました。

 決めかねていたところ、妻から『借金しなければ家のお金は全部使っていいよ』と言ってもらいました。勝負をかけた原稿を書くとき、妻には原稿を読んでもらっていたこともあって、『伝えたいことがあるんでしょう』と理解してもらえました。それで長女の学資保険を解約して行ってきました」(森合氏)


世界王座を計27度防衛し続けてきたアルゼンチンの英雄オマール・ナルバエスは、150戦目で初めてダウンを喫し、井上選手に2ラウンドで敗れた(©山口裕朗)

担当編集者「市場が存在している自信があった」

 森合氏の取材は進み、書籍化のめども立った。書籍の編集を担当した講談社の鈴木崇之氏は内容に手応えを感じていた。

 「スポーツノンフィクションの中でも、ボクシングは比較的関心を持たれやすいジャンルで、ノンフィクションに向いた題材だと森合さんには最初に申し上げています。沢木耕太郎さんの『敗れざる者たち』や後藤正治さんによる作品などの名著もあるので、市場が存在している自信がありましたし、井上選手という題材も悪くないと思いました」(鈴木氏)

 結果的に400ページを超える本が出来上がり、発売前重版となった。ただ、ノンフィクションが発売前重版となったこと自体、極めて異例だという。

 「普通のノンフィクションで発売前に重版することはほとんどない。読んでみないと面白いかどうか分からないですから。ところが、発売前にAmazon(アマゾン)の順位が100位台になったことで、初版1万部は絶対に売り切れると確信したので、販売部とかけあって発売前重版を決めました」(鈴木氏)

 なぜ発売前にアマゾンの順位が上昇していたのか。その大きな要因は、森合氏、阪上氏、鈴木氏が取り組んできたSNS戦略にあった。

 取り組み始めたのは発売の約1年前から。当時のTwitter、現在のXで、森合氏が書籍に関する取材についてつぶやき始めた。発信のタイミングや書く内容を、細かくアドバイスしたのは阪上氏だった。

 「井上選手についての本ですから、ファンの間でどう盛り上げるのかが重要だと思いました。その際にカギになるのがSNSです。Webメディアの編集長をしていた経験から、ネット上での盛り上がりが大事なのは分かっていましたし、鈴木も書籍を宣伝する際にWebで先に公開する手法の効果を感じていたので、共通の理解がありました。

 特にボクシングは、熱心なファンがいるジャンルです。そこで、まずは森合さんが何をしているのかを、発売までにファンに知ってもらうことから始めました。発売の半年前までは、必ず2日に1回は取材メモや、取材の工程表などを出すことをお願いして、森合さんのフォロワーを2000人に増やすことを目標にし、まずはSNS上で影響力が出てくるひとつの目安である1500フォロワーを目指しました」(阪上氏)

 当時の森合氏のフォロワーは約300人。始めてはみたものの、敗れた相手への取材と同様に、最初は気乗りがしなかったという。

 「SNSは好きじゃないし、恥ずかしいので、本当はやりたくなかったです。井上尚弥選手の名前を書けば拡散するのは分かっているけど、それを利用しているようで嫌でした。阪上さんからは『発売1カ月前からは恥を捨ててください』とまで言われていました(笑)」(森合氏)

 森合氏が投稿すると、「編集者の阪上」の名前でXに2万人以上のフォロワーがいる阪上氏もその投稿を引用する。地道に続けているとフォロワーは徐々に増え、井上選手のファンが拡散し始めた。SNSにアップする素材は鈴木氏と阪上氏も用意した。原稿のゲラが出ると、森合氏が写真に撮って投稿する。鈴木氏が帯に付ける文章を送ると、それもすぐに投稿した。

 発売1カ月前からは、阪上氏のアドバイス通りに毎日投稿をするようになる。大きな反響があったのは、表紙の案を連日投稿したことだ。

 「表紙の案を5つ作って、毎日1つずつ投稿して、皆さんどう思いますかと投稿させてもらいました。これは画期的でした。最初に投稿した日に、あまりにコメントの数が多かったのでびっくりしました。フォロワーのみなさんがこの本に感情移入する、大きな転機になったと思います」(森合氏)

 もちろん、表紙の案をSNSに投稿するのは、鈴木氏も阪上氏も初めてのことだ。鈴木氏が装幀家の岡孝治氏に許可をもらった上で実現した。森合氏は「鈴木さんや岡さんの決断のおかげでフォロワーの一体感が生まれた」と感謝している。

 また、阪上氏は表紙をプリントしたTシャツやパーカーを自費で作った。販売するためではなく、SNSに投稿する「ネタ」の1つとしてだ。同様に、鈴木氏は書籍を宣伝するチラシを1000枚用意した。映画のポスターのような出来栄えのチラシは、撒いてくれる人を募集するとすぐになくなった。こうしてSNSは盛り上がっていった。


表紙をプリントしたTシャツ

井上尚弥選手が「楽しみだ」

 そして、発売前にもかかわらず、森合氏の書籍がSNSで爆発的に拡散する瞬間がくる。9月28日、表紙のデザインが決まったことを森合氏がXにポストすると、井上選手がその日のうちにリポストしたのだ。

 続いて、10月10日に森合氏が前述のチラシをポストすると、井上選手は「楽しみだ、、」とコメント付きで引用。インプレッションはその日のうちに50万を超えた。

 さらに、発売直前に森合氏が本を送ると、井上選手は「楽しみにしていた一冊が届きました!じっくり読ませて頂きます」とポスト。井上選手による一連の拡散が大きな決め手となり、発売前からアマゾンで100位台にランクイン。鈴木氏は、井上選手自身が本を応援してくれたことと発売前重版を「PR TIMES」にニュースとして配信した。

 森合氏が「本を応援してほしい」と井上選手に頼んだわけではない。にもかかわらず、井上選手は森合氏のポストに対して、自発的に反応してくれたのだ。

 「井上選手が最初にリポストしてくれたときは驚きました。してくれるとは思っていませんでしたから。WBSSが始まってからは毎回試合前に『週刊プレイボーイ』でインタビュー取材をして、取材の後も練習を終わるまで見ているものの、私と井上選手はあくまで取材相手と記者の関係です。

 一方で、私がアルゼンチンに行って同国の英雄ナルバエス選手に取材することを知っていたようで、帰った後も『どうでした』と聞かれたりしていました。だから、この本を井上選手はどう思っているのかなとは、気に掛けていました。そう思っているときに応援してくれたので、すごくうれしかったですね。井上選手のおかげで、ボクシングファン以外の人にも本の認知度が高まったと思います」(森合氏)

 発売後の11月17日には、森合氏が直接、井上選手に本を手渡した。すると、井上選手は次のようにコメントを寄せてポストした。

 「ありがとうございました! 対戦相手の心情など知れる機会などなくこの一冊は自分が辿ってきたキャリアを色濃くしてくれました。感慨深い一冊です。皆さん是非手に取って読んでみてください!」(井上選手のX・2023年11月17日)

「敗者」の言葉から見えてくること

 発売後もSNSでは盛り上がり続けている。森合氏は読者の感想を全てリポストしているほか、発売記念イベントなども開催。フォロワーは2000人を超えた。

 新聞や雑誌に書評も掲載され、作家も感想をポストしている。『週刊少年マガジン』で1989年からボクシングマンガ『はじめの一歩』を連載している森川ジョージ氏もその1人だ。森川氏の感想は、新しい帯に採用されることになった。

 最初はSNSへの投稿を「恥ずかしい」と思っていた森合氏は、今は言われた通り「恥を捨てて」Xへのポストを続けている。恥を捨てることができた理由を、次のように語った。

 「結局、書いただけでは駄目だなと思いました。佐野選手やエルナンデス選手、ナルバエス選手らが話さなくていいことまで話してくれて、全部さらけだしてくれましたから、自分はそれを伝えなきゃいけない。この本を多くの人に手に取ってもらわなければいけないと思うようになりました。

 勝った人にはもちろんですけど、敗れた人にもそれぞれの物語があります。大きな目標や、そびえ立つ壁に向かっていく場面は、ビジネスにおいても、誰にでもあると思います。だからビジネスパーソンや経営者の方にこそ読んでほしい内容です。敗れた彼らの言葉から何か少しでも得るものがあると思います」(森合氏)

 SNSを活用した戦略は、ノンフィクションをはじめとする書籍のプロモーションとしても画期的だった。阪上氏は今回の取り組みの意義をこう振り返った。

 「スポーツノンフィクションを盛り上げるためと、Webメディアという無形の媒体から売れる本(プロダクト)を作りたいという思いがありました。森合さんにはかなり無理を言いましたけど、その思いで一致できました。ボクシングファンと森合さんがつながって、SNSに広い面を作っていく今回の手法は、SNSがある限り、あらゆるジャンルで可能だと思っています」(阪上氏)

 鈴木氏は、今後はリアル書店で手に取ってもらうための取り組みも進めていくと話す。

 「POPやポスターを作って書店さんに貼ってもらえるようにお願いをして、貼ってくれたところをまた森合さんが写真に撮ってポストする。そうすれば書店さんにも喜ばれますよね。それと品切れ状態のときにはできなかった、新聞での宣伝も考えています。本屋さんの格闘技コーナーに置かれている現状から、徐々に前に出していただいて、ノンフィクション好きや本好きの方にも手に取ってもらえるようにしたいですね」(鈴木氏)

 『怪物に出会った日〜井上尚弥と闘うということ』は今も売れ続けている。今回のヒットがノンフィクションのプロモーションに新たな可能性を示したことは間違いなさそうだ。


(撮影:武田信晃)

著者プロフィール

田中圭太郎(たなか けいたろう)

1973年生まれ。早稲田大学第一文学部東洋哲学専修卒。大分放送を経て2016年4月からフリーランス。雑誌・webで大学問題、教育、環境、労働、経済、メディア、パラリンピック、大相撲など幅広いテーマで執筆。著書に『パラリンピックと日本 知られざる60年史』(集英社)、『ルポ 大学崩壊』(ちくま新書・筑摩書房)。HPはhttp://tanakakeitaro.link/


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