萩本欽一さんに学んだ「良い会社の作り方」 浅井企画の一時代を築いたマネジャーのプロが語る軌跡:異才を見いだす「育てるマネジメント」(3/3 ページ)
ENPASSの川岸咨鴻(かわぎし・ことひろ)名誉会長は、藤圭子のマネジャーなどを経験した後、コント55号など数々の人気タレントを輩出してきた芸能プロダクション「浅井企画」で45年間、専務取締役を務めた。これまでの道のりの中で、どのようにタレントたちと向き合い、才能が花開く組織を作ってきたのか。萩本欽一さんに学んだ「良い会社の作り方」とは?
昭和のマネジャーと令和のマネジャーの違いは?
佐藤氏: すごい。「芸能事務所戦国時代」みたいなマンガが書けそうですね。当時の面白いネタがたくさんありそう。ちなみに、当時のテレビの世間的な扱いはどうだったのでしょうか。
川岸氏: 日本でテレビ放送が始まったのは、昭和28年。それまでのタレントたちは「銀幕のスター」と言って映画を中心に活躍している人がほとんどでした。テレビが出てしばらくは「電気紙芝居」と揶揄(やゆ)されていましたよ。映画よりずいぶんと小さい画面で、すぐに終わっちゃうからって。
佐藤氏: 今から10年前くらいのYouTubeやYouTuberが、そんな評価でしたよね。
川岸氏: そうそう。最初は、テレビ側から芸能事務所やレコード会社に「おたくの歌手をテレビに出してください」とお願いしていましたね。
でも、しばらくしたらブラウン管からどんどんスターが生まれてきて。欽ちゃんなんてまさにそう。テレビ局から出演料を聞かれ、5万円のつもりで片手で「5」を作ったら、後日50万円が振り込まれたなんて逸話もあります(笑)。5、6年であっという間に立場は逆転していました。
佐藤氏: 当時のことを僕は詳しくは知らないけれど、テレビが主流だった時代は、タレントをいかにしてテレビ出演させるかがマネジャーの重要な役割だったと思うんです。でも今は、YouTubeなどのSNSで発信していく時代にシフトしてきている。それに伴ってマネジャーの役割も変化してきていると思うのですが、川岸さんはどう考えていますか。
川岸氏: ものすごく変わると思いますね。簡単に言うと、昔はテレビと雑誌とラジオの3つに広告を出していればよかった。でも今は媒体が増えすぎて、どこにコマーシャル効果があるか分からない。
佐藤氏: 川岸さんが現場でがっつりマネジャーをされていた頃は、その3つに対して徹底的に営業を行っていた?
川岸氏: そうですね。マネジャーが積極的に営業すればするほど、大きな結果となって返ってくる時代だった。でも今は、タレント側が主体的に動いて、マネジャーがサポートする時代に変わっているのかもしれないですね。
(後編に続く)
記事の後編では、川岸氏が身をもって体感した「良いマネジャーとは何か」「仕事はどう進めるべきか」について聞き、そのマネジメント論の本質に迫ります。
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